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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その4

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若林功(若林功七)氏の「北海道開拓使秘話第3巻」によると

「進退維谷り(しんたいこれきわまり)」という記述があります

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■進退維谷り

兵部省と開拓使の対立は、会津藩士たちへ大きな影響を残しました

石狩・小樽・高島の支配が、開拓使へと引き継がれたわけですが

開拓使は、兵部省からの引き継ぎを無視し相手にしなかったため

兵部省は、政府に藩士団を旧藩士へ返還するように要請します


しかし、旧藩主は、西軍からやっと許されて斗南藩3万石に移るために、四苦八苦の最中です

結局、北海道へ渡った旧藩士は引き取れませんでした

斗南藩は、開拓使へ引き取れない旨を願い出ましたが、開拓使は相変わらず冷淡な対応をします

兵部省と開拓使の縄張り争いに巻き込まれて、移住先が決まらないという状況なのです


まずは、今住んでいる鰊番屋は、ニシン漁が始まると出なければなりません

帰る藩も場所も自由も無く、独身の藩士の中には脱藩者(行方不明)まで出てしまいました

雪が消えるまでに移住先を決めて、雪解けと同時に開墾に移らなければなりません


明治3年2月に、樺太開拓使が設置されました

そして、5月には「黒田清隆」氏が、北海道開拓使次官となり樺太開拓使専任として赴任します

移住先も決まらないままの会津藩士たちは、黒田氏に嘆願書を出したようですが、詳細は不明です

黒田清隆氏と言えば、西軍薩摩藩の参謀であり、旧とは言え敵側の大人物

そこに願い出るわけですから、気持ちは複雑だったのでは無いでしょうか

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黒田清隆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田清隆


結果、黒田清隆氏が、その願いを受け入れる事になるわけです


宗川茂友家の家宝として、藩士団の懇願を承諾した旨の書簡が現存しているようです

**********

前文略す

指て過日より御示談之をたるない江

同藩之仁者昨日小生御引受辯官より

民部省江御藩江其儘住居又者帰藩之者

分別を付け御願書差出さる、方に内決

以堂し候之由内密御案内申し植え置候

尚書余拝願之上に奉存候 早々拝具

11月4日      黒 田 拝

廣沢君

宗川君


(漢字はそのまま、カタカナ→ひらがなにしています)

*********

11月4日とは、明治3年、宛名は「廣沢安任」氏と、前出の「宗川茂友」氏です

廣沢安任」氏は、2013年、NHK大河ドラマの『八重の桜』(岡田義徳さん)にも登場しましたね

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広沢安任 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/広沢安任

広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。

広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。

その後、会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後に廃藩置県により斗南県となっていたが、斗南県小参事となった安任は、困窮にあえぐ自県の救済策として弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事・太田広城と両名で、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)の成立に至っている。

また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、明治5年(1872年)に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした。当初は地元の反対、資金難に苦しんだが、内国勧業博覧会で馬、牛が龍紋賞を受賞している[1]。、なお、明治9年(1876年)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿・大久保利通が牧場を訪れ中央政府の要職を準備して仕官を薦めたと言われており、その後も幾度か政界への勧誘があったと言われているが、「野にあって国家に尽くす」として固辞し、畜産・酪農に生涯をささげた。養嗣子に甥の辨二を迎えた。辨二は駒場農学校を卒業した衆議院議員である[2]。


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宗川茂友」氏については、余市町のHPにも詳しく載っています

https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/kouryuu/aizu.html

福島県の西部、会津盆地の東南に位置し、若松城や白虎隊で有名な会津地方の中心都市です。明治4年に会津藩士の方々が入植され、日本ではじめてリンゴの栽培に成功しました。

 古くからゆかりのある両市町において、平成27年10月に交流の絆をさらに深めるため親善交流都市の締結をしました。
 HP:http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/

会津と余市町の歴史

会津藩士とリンゴ

 余市を代表する産物と言えば「リンゴ」というのが北海道人の連想ですが、リンゴが余市に根付くまでには、明治初期に本町に移住してきた会津藩士の苦難の歴史がありました。
(このコーナーは、福島県会津若松市とのホームページ相互リンクを記念して掲載しました。)

藩士団、余市へ

 明治2年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まりました。同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後オタルナイへと到着しました。
到着後しばらくは兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、最終的に余市へ移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた明治4年4月のことでした。

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そして、明治3年12月に、樺太開拓使の費用をもって、小樽在住の旧会津藩士は救済される事になりました

もう逆賊でも流罪人でも無く、旧藩への復帰とされ、ようやく救われる事になりました

仮の移住という名目で、年明けを待って余市川下流の未開地、当時の地名で「余市郡シュプント」への移住が決まりました

「シュプント」とは、アイヌ語で、シュプン=うぐい、トー=湖沼

余市へ移住した後に、「黒川」「山田」という町名を付けたのも、黒田清隆氏への感謝なのでしょうね

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この地域の利点は、水運が良く、洪水期にも水没しないし、比較的肥えていて、しかも無人地域でした

木材などを運ぶにしても、陸路は未開ですから海川に面していないと運べなかったのも大きいでしょうね

この頃の余市は江戸時代から移住者がいました

余市は泥炭地が多く、大雨でも水がつかない地域の大川町や浜中は、すでに居住地となっていました


明治2年の初冬から、1年3か月、ようやく生きる場所が見つかったわけです

移転先が決まった事で、青森の南部から木材を買い函館で切り込み、余市へ送られ準備が整いました

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昭和43年頃まで残っていた入植時のおもむきを残す居宅の写真



次回は、余市移住後の旧会津藩士のお話しになります


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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3

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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
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■招かれざる客

蝦夷地(北海道)へ第1次隊が上陸して、わずか1週間後の事です

明治2年9月27日、政府は松平家の家名再興を許す事を決め、願い出るようにとの通達を出します

宿願であった謹慎が解けていたのです

松平家では、容保公の実子の慶三郎(1歳)を立てて家名再興の願いを出し、

その後、11月3日に陸奥下北南部に2戸・3戸などに、3万石を与えられたのです

*(目安として、1万石で1万人が養えるようです)


当時の情報伝達であっても、この情報は、すぐに北海道に移住した旧藩士たちにも伝わりました

「もう1か月出発が遅かったら、こんな未開の蝦夷地には来なかったのに」

「主君免罪の名目で、われわれをだました」

「何のために来たのか、主君と藩士の謹慎解除のためだったはずなのに」

多くの不満を呼ぶ事になったのです


青木日記によると

明治2年17日付けで

三人の隊員が「公私慎の姿を似て屹度慎被仰付候事」とあり、20日目に許され、うち一人は取締役を解雇されている

明治2年11月27日付けでは

「佐藤寅之助と申者清水金五郎、広瀬新吉と申者共江ケンカ致候事」とあり

翌日には「晦日 今晩、佐藤寅之助落命致候、天朝の御役人御改に御出に相成候」

これらの記述から、ケンカが常態化して絶えない様子が伺えます

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「青木日記」

第1次隊の藩士の青木寅之助氏が、明治2年9月21日から3年4月16日までの事をメモしていた日記

10月から会所勤めとなり、人の出入りや藩士家族の生活なども書かれている

小樽での生活に関する唯一の貴重な資料です。日記の所有者は、札幌市の青木義雄氏

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■石狩入植の中止

明治2年7月、明治新政府は北海道開拓使を設け、8月15日には「松浦武四郎」案に基づき

蝦夷地は、正式に「北海道」と命名されました

9月には、開拓使長官の東久世通禧氏が函館に到着し、札幌への拠点として、30日には開拓使出張所が出来ます

一方、兵部省は、先駆けて小樽に出先を置き、支配地に「石狩・小樽・高島」などを管轄下にしました


開拓使は「佐賀藩」

兵部省は「長州藩」

ここでも、藩閥の対抗意識があったわけです

しかも、犬猿の仲です


兵部省は、先に来道した結果、石狩や銭函の港を押さえ、開拓使側に糧食米を運ばせなかったそうです

開拓使側は、各場所の運上屋場所請負人に任命して、手持ちの米を集めたというエピソードもあります

**余市運上屋の「林長左エ門」氏も、少主典に任命され、米百俵を送っています**


開拓使と兵部省は、その後も対立した事で、会津藩士の命運も変化して行きました

開拓使は、札幌を管轄地とします

兵部省は、会津藩士を石狩当別に入植させるという計画で進めていました

兵部省は、札幌周辺の開拓に成功していた大友亀太郎氏を石狩国兵部省出張所開墾係に任命

12月に結氷を待って、石狩川を渡り会津藩士と木こりで雪の原野を測量し、住宅用の木材も伐採しました


この時に同行した会津藩士の記載が、前出の青木日記に書かれています

明治2年10月12日

「佐竹四郎太殿二宮俊蔵殿細谷伴助殿山内直之助殿石黒信太郎殿松本原之助殿、トウベツ方面へ罷越」

この藩士は10月25日と11月7日に別れて帰り、11月8日には落合恒三郎、阿妻が出張、12月15日には隊長宗川茂友も石狩当別に出張している

明治3年2月2日

「後者の分は石狩江別移候様、先着の分は高嶋・熊臼引移候様仰聞候」

3月18日「隊長トウベツノ方面へ出張候事、お供ニテ石山・青木」


しかし、大友氏によって進められていた当別移住計画は、突如として中止となったのです

理由は開拓使と兵部省の力関係が変化でした、明治政府が開拓使に引き渡すように命じたのです

兵部省は、陸海軍省に移行する計画だったようです

政府のやり方に嫌気がさした大友氏は辞任しますが、慌てた開拓使側は、開拓使掌に任命するも即日辞職して6月には離道してしまいます


3月になり、時期は鰊漁期に入り、小樽高島への移住組(鰊番屋住み)が、全員が石狩に移住しなければならなくなったのです


そして、余市へとなるわけですが

君たちはどう生きるか状態ですよね

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その4へと続きます


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当時の蝦夷地は、西と東に分けられていました

東側は「アイヌ居住区」として残し、境界線を作って対立しないように配慮していたのです

明治政府は、西側しか開墾出来なかったのです

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余市運上屋の資料
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2


戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
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■小樽内へ上陸

旧歴明治2年9月21日、東京の品川を出港したアメリカ籍の蒸気船コユール号が目的地のオタルナイに入港した。

その船の乗客は、兵部省の井上弥吉に引率された北海道移住旧会津藩士の第1次隊の103戸332人でした。

旧歴の9月21日と言えば、新暦では11月4日、北海道は晩秋というより初冬

日本海は荒れしけ続きで食事も喉を通らなぬ者も多く信香浜に着いて蘇生した思いだったと、移住2世の川俣兵司氏が「炉辺夜話」に書いている


「オタルナイ」とは、今の「小樽市」

当時は、勝納川の河口を中心に海に平行して信香(のぶか)・勝納(かつない)が開けた所で寂しい漁村でした。

宿泊所となったのは、漁期外の鰊番屋や遊女宿、遠い蝦夷地への移民の悲哀と憤りもあったという。

第2次隊は9月30日、大阪丸で到着。資料が残っていないため108戸と推測されています。



【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編①廃橋編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=i9n1kGq-3vk

文献上最初の和人入植地とされる、「オタルナイ」石狩湾新港建設等の影響で1970年台に廃村になったが、今でもその痕跡が残る。
「おたる」の地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」に由来する。しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではない。

【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編②集落跡編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=mR4SSE5uZmo

文献上最初の和人入植地であるオタルナイは、原名をタルナイといい、今の小樽市や石狩市樽川のベースになった集落です。漁業不適地ということで、漁場を求めて人が散っていき、石狩湾新港開発に伴い1970年代に廃村になったそうです。
今でも集落の十字路、メインストリートは残っていますが・・・
厳しい自然環境で、漁業にも農業にも適さない河口砂地で、交通の便も悪く、舟運をやるには川が小さく、人間が住む理由が見つからないような土地です。




■蝦夷地移住のいきさつ

慶応4年(1868年/明治元年)、会津藩の鶴ヶ城は落城し西軍が勝利、城内にいた藩士たちを、会津藩士卆として猪苗代に収容し謹慎させました

この年の暮れには東京送りとなり、西軍諸藩監視の元で引き続き謹慎の身となった

戊辰戦争の敗者といえ、会津藩士は屈強で、新政府にとっても厄介な存在だったのです

最初に信州の松代藩に移住予定でしたが、途中で松代藩から「人数的に無理」との陳情で東京に送られたのです

城の外に居た藩士たちは、越後高田藩送りとなり寺院などに分散収容されました

明治新政府は、多くの仕事が山積み状態であり、その一つに蝦夷地開拓がありました

兵部省が政府に対して出された「会津降伏人始末荒目途」の記述には、こうありました

「総人数を1万7千人とみて、そのうち1万2千人を蝦夷地へ移し、5千人を内地3万石の地へ移す。

蝦夷地にへは、巳年(明治2年)4千人、午年に8千人。移住者には家作・農具代として48万両、米7万石を支給して欲しい」

政府は、最初から旧会津藩士を蝦夷地へ送り込み、北海道開拓をさせる算段があったのだろうと思われます

若林功七の「北海道開拓秘話」では

「降伏人には国民として一視同仁から特別の寛典と便宜を与え兵部省管理として、一部を北海道の発寒・石狩・小樽に移し開拓に従事させる事にした」と書かれています

柴五郎氏によると

「自由を束縛され屈辱に日々を送るよりも、新天地での生活が出来て、旧主の罪が許されるならと、200戸近くが応じた」とあります

しかし、それは、初めから普通の移民では無かったのです


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落城後の鶴ヶ城~銃撃の後が残っている

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会津若松観光ナビのHPから

若松城 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/若松城

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。 地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。



その3へ続きます



戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1

2018年になって、初めての更新です

余りにもマイペースで本当に申し訳なく思います

昨日は建国記念日の日で、お稲荷さんの日でしたが、余市神社も稲荷系と言う事で

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昨夜は、いなり寿司を食べましたよ

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今年は「戊辰150周年」と言う事ですよ

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明治元年は1868年、戊辰戦争から150年という節目の年なのですね

会津若松市では、イベントも目白押しのようです

会津若松市戊辰150周年記念事業
http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/


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会津藩士と余市町の関わりについてのおさらいです

まず、余市町の年表を見てみましょう

余市町のHPより
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/syoukai/history.html

余市町のあゆみ(余市年表)

年(西暦)

できごと


慶長4年(1599年) 松前慶広(伊豆守)、松前左膳に余市川右岸を与え上ヨイチ余市場所とし、左岸を松前八兵衛に与え下ヨイチ場所とする。
元禄元年(1688年) 松前藩、神威岬(かむいみさき)以北への婦女子の通行を禁止する。
文化3年(1806年) 幕府目付役遠山金四郎景普ら西蝦夷地(にしえぞち)を巡回。
文政3年(1820年) 初代林長左衛門ヨイチ場所を請負い、各地に漁場を拓く。
安政3年(1856年) 神威岬以北への婦女子の通行禁止を解く。これによりヨイチに定住する者増加する。
安政4年(1857年) 余市・小樽間の道路開通する。
明治2年(1869年) 開拓使余市詰役員派遣(浜中出張所)。余市定着77軒
明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。

明治16年(1883年) 余市・蘭島間にトンネル開通。
明治18年(1885年) 幸田成行(後の露伴)、余市電信局に赴任。
明治33年(1900年) 7月1日、郡内11町村を合併して余市町となる。
明治35年(1902年) 北海道鉄道株式会社により鉄道敷設。余市駅開設。
明治40年(1907年) 余市、小樽間に電話開通。
明治42年(1909年) 阿部勘五郎、黒川村に余市酒造(株)創設。銘酒「十一州」発売。
大正4年(1915年) 小樽電灯株式会社の工事により町内に電灯点灯(3,000余戸)。
大正9年(1920年) 第1回国勢調査。人口16,809人。
大正10年(1921年) 山田村にアユ人工孵化場建設。
大正14年(1925年) 大江村下山道地区を余市町に併合。
昭和4年(1929年) 北海道水産試験場完成。
昭和9年(1934年) 大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)創設。
昭和25年(1950年) フゴッペ洞窟発見される(昭和28年国指定文化財に)。
昭和29年(1954年) この年を最後として以後ニシンの回遊が途絶える。
昭和33年(1958年) 余市町立天然水族館完成。上水道が竣工し、市街地に給水。
昭和36年(1961年) 第10回全国高校スキー大会で余市高校優勝。
昭和37年(1962年) 前年に続き大水害発生。大川橋流失。
昭和40年(1965年) 北星学園余市高等学校開校。
昭和44年(1969年) 運動公園野球場完成。余市水産博物館開館。第1回北海ソーラン祭り開催。
昭和46年(1971年) 役場新庁舎(現在の庁舎)完成。
昭和47年(1972年) 笠谷幸生選手、冬季オリンピック札幌大会70メートル級ジャンプで金メダル獲得。
昭和54年(1979年) 中央公民館、陸上競技場、歴史民俗資料館完成。
昭和57年(1982年) 総合体育館オープン。
昭和63年(1988年) 英国ストラスケルビン市(現イーストダンバートンシャイア市)と姉妹都市提携。
平成3年(1991年) 北海道余市養護学校開校。余市図書館開館。
平成4年(1992年) 毛利衛氏、スペースシャトルに搭乗して宇宙実験。
平成7年(1995年) 旧余市福原漁場(国指定史跡)一般公開。
平成10年(1998年) 斉藤、船木選手、冬季オリンピック長野大会、ジャンプで金メダル獲得。宇宙記念館オープン。
平成17年(2005年) 第18回国勢調査。世帯数9,310世帯・人口22,734人
平成18年(2006年) あゆ場公園パークゴルフ場完成。
平成21年(2009年) 余市川浄水場(山田町)供用開始。
平成23年(2011年) 「北のフルーツ王国 よいちワイン特区」」に認定される。
平成26年(2014年) 名誉町民の竹鶴政孝氏とリタ夫人をモデルとしたNHK連続小説「マッサン」が全国放送される。(放送期間:平成26年9月29日~平成27年3月28日、全150回)
平成27年(2015年) 奈良県五條市と交流都市提携の締結。
平成27年(2015年) 福島県会津若松市と親善交流都市の締結。



この部分が、会津藩士が余市にに入植して、日本で最初にりんごを結実させた歴史です


明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。


会津藩士と余市町の深い繋がりについて

前田克己氏が書いた豆本~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11

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これを紹介しながら、振り返って行きたいと思います

この本は、平成2年に出された物で、表紙の殉職碑はこれですね

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豆本ですから、手のひらサイズの小さな本です

本編は、次回になります


2017年の終わりに、感謝を込めて!


丁酉の1年が、あっと言う間に過ぎてしまいました。

更新が少ないのを反省しながら、本年も終える事になり、大変申し訳ありません。

来年こそは、きちんと更新するように心がけたいと思っています。


本年も、たくさんの方々に出会い、教えられ、助けられ、何とか乗り越えてこられました

本当にありがたく、感謝感謝です。

来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

来年は、1月5日より、営業させて戴きます。

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それでは、皆さま、良い年をお迎え下さい!

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PS

ただいま、掃除とお正月の食のために、時間が足りないとボヤきながらも頑張っています。

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2017年の反省会も、まとめられたら書きたいと思っています。。。


【冬支度】感謝!本年度の売店の営業は無事に終了いたしました。


2017年の秋も忙しく慌ただしく、気が付けばもう冬が目前となりました。

6月下旬から営業していました露店ですが、気温の低下と共に営業が終了となりました。

たくさんの皆さんのご来店に心から感謝いたします。


冬用の野菜は、もう少し本店の方で販売いたしますので、ご利用下さい。

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北海道の冬の漬物と言えば、こんな感じです

「大根の玄米漬け」と「聖護院大根の粕味噌漬け」

そして「札幌大球のニシン漬け」が定番です

最近は、「白菜の粕漬け」も人気があります


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気が付けば、イチョウの葉はすっかり落ちて

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ラズベリーは、2度目の収穫を迎え

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まだ細すぎる大根も全部収穫しなければ、凍結の危機が迫って来ました

もう少し、秋を満喫したかったなと思いつつ

冬支度に勤しむ日が続きます

収穫の秋がやって来ました。秋晴れと遅れていた梅干の天日干し、枝豆収穫など


ずいぶん更新していないまま、季節はすっかり秋になりました

からっとした空気と昼間の暑さや夜の気温も、まぎれもなく秋ですね


今年は、春から低温やら雨やら日照不足やらと、作物には試練が続いて来ました

何と言っても、病害虫の多さが気になった夏でした

収穫時期になると、特に野菜の不作傾向を実感します

カボチャも収穫量が半分でしたし、ジャガイモは枝枯れが早く小玉傾向のようです

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季節的には遅れましたが、やっと梅干の天日干しが出来ました

今年の豊後梅も糖度高く酸味もあって、美味しい出来ですね

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もっとも食べられるようになるのは、半年以上先ですけど


それと、枝豆の収穫です

品種は「鞍掛(くらかけ)」です

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パンダ豆とも呼ばれ、実に黒い丸い色が入ります

もう何十年も種を更新し続けている、在来種で、とても美味しい枝豆です

大豆にしても美味しいです

すでに、大根、聖護院大根、白菜などの種まきは完了しています



夏秋イチゴ(かしゅうイチゴ)、四季なりイチゴも収穫のピークですね

色がとても鮮やかで、甘くて酸っぱくて、ソースやジャムにすると美味です

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ぶどうは、まだハウス物が主流で、露地物は、遅れ気味であまり良く無い印象です


りんごは、色が先行していますが、まだ味は乗っていないですが

早生旭、黄王、シナノレッド、恋空などの収穫が始まっています


その他で気になるのは、アライグマの食害が多くなっている事ですかね


このまま、秋らしい天候が続くと良いなと思います


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「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9


まとめです

りんご(萃果)(林檎)は、3つのルートで日本に入って来ました

①中国→朝鮮→日本 これが「和林檎」です鎌倉中期頃

②ポルトガル→長崎(耶蘇教)→伊達政宗 これはほぼ原産地と同じ原種です

③ヨーロッパ→フランス・アメリカ→日本 これが「萃果」 明治初めで改良種です(フランスでは「pomme」アメリカでは「apple」)

栽培過程で分かったのは

①種子から発芽したりんごは、元のりんごよりも質が落ちる事

②切られた枝から発芽したりんごは、元のりんごと同じ性質を持つ事

③ごくまれに、種子から発芽したりんごの中に、形が大きくなったり、甘くなったりする物がある事

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日本に適した品種苗を選び、りんご栽培の技術を教えてくれたのは、アメリカ人の農業教師「ルイス・べーマー」氏

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りんご栽培は、開拓使が導入し、北海道でまず広がり、果樹栽培がお金を稼ぐ仕事と認定された

りんご栽培は「東北地方」の失業武士の対策としても使われ、各地に広がっていった

鉄道が運行を始めると蒸気機関車が輸送の中心となり、青森県、岩手県が栽培の中心となって行った

青森と岩手が、りんごの産地として名前が大きくなって行ったのは、交通網と官民両方の努力の成果

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りんご栽培では、病害虫との戦いで努力と工夫をして来たのは青森県で、ボルドー液を粉化する事で効果があった

地域ごとの取り組みによって、りんご栽培には、大きな差が出ていった



苗の導入直後から、各地で、りんごの品種別の特性をつかみ、理想のりんごを交配して試験していた

岩手県盛岡市の農林省園芸試験場東北支場(現:果樹研究所りんご研究所)で、総数13,775本の中から「ふじ」は生まれた

昭和14年に「国光(母)」×「デリシャス(父)」の組み合わせの実生で交配し、昭和22~26年頃に結実、選抜試験を経て、昭和30(1955)年の秋、やっと納得のいく果実が結実


多果汁、甘酸適和、濃厚な味、香り良好、貯蔵良好との評価で「東北7号」となり、その後「農林1号の『ふじ』」として登録されました

交配から23年、多くの研究者の理想となる夢のりんごの誕生しました


多くの品種の中で、日本のりんご栽培技術の結晶の代表品種が「ふじ」だったわけです

すでに、世界22か国でふじは栽培がされていて、ふじは、世界市場で最も成功したりんごと言われています


昭和32(1957)年頃、消費者ニーズが変化し始め、国光と紅玉が中心だった生産に変化が出始めます

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ここで、次世代りんごをデリシャス系に行くか、国光に代わる品種への模索が始まっていました

選抜試験で良好だった「ロ-628」(国光×デリシャス)が注目される事になりました

この品種に一番に注目し、次世代りんごだと確信した研究者が、農林省園芸試験場東北支場(青森県藤崎町)の支場長の「森英男」氏です

国光を親とする組み合わせ6組、層実生数2241個体、その中で、国光に似ていたのは2個体だけだったそうです

いかに、その確率が低かったのかが分かりますね

「東北7号」と名付けられ、栽培が広がり、東京千疋屋でも試食会が開かれたり、評判が知れ渡ります

そして、品種名となります

藤崎町から「藤」、「藤」なら花みたいだから、ひらがなの「ふじ」となり

日本一のりんごだから富士山にもあやかって「ふじ」、世界中の消費者が、富士山=日本と認識してくれる


まさに「言霊(ことだま)」だったんですよね

日本人的過ぎる発想ですよね、言葉通りに実現してしまうのですから

やがて、国光、デリシャス時代を経て、ふじの時代になって行きました

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今でも、りんご栽培には、多くの手間がかかっています

まだ雪の残る時期に枝を整える「整枝」「剪定(せんてい)」する事から始まり

春には肥料を施し、防除、殺菌、殺虫、摘花、摘果、袋かけ、袋外し、葉摘(はつみ)、玉回し、収穫、選別、貯蔵、出荷です

そうやって、多くの人の手によって、安全で美味しい果実は、消費者に届けられるのです

りんごは、良く見ると、一個一個、全部違う顔をしているんですよ

りんご栽培の歴史を振り返ってみて、日本のものつくりが何なのかが、良く理解できました

理想を目指す、諦めない、努力する、年月を超えても引き継ぐ人たちがいて、やがて奇跡が生まれる

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りんご栽培を極めた、篤志家の皆さん、輸入し配布した開拓使の方々、栽培を教えて広めて下さった方々、

防除や手入れを確立した方々、新しい理想のりんご作りを長い月日に渡って努力され結実に尽力された皆さまに感謝いたします

そして、この本の著者の「富士田金輔」氏に敬意を贈ります
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長くなりましたけど、「りんごの歩んだ道」の感想でした!


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畑も雪解けとなり、耕作、育苗と、忙しい毎日が始まりました

雪が少なかった割には、雪解けが遅れています


天候、気温、日照、降雨、ちょうど良いサイクルに恵まれますように、祈って!


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8


戦争が終わり、「りんごの唄」に癒された日本人です

りんごの唄 並木路子


この、リンゴの唄の作詞家の「サトウハチロー」さんの祖父の「佐藤弥六」氏は、青森りんごの指導者であり功労者です

りんご士族の一人として、りんごの栽培に携わり、「林檎図解」を書いています


戦地からの復員者が増えると、農園の人手不足は解消し、戦争で荒廃したりんご園は徐々に復活して行きました

昭和21(1946)年には、土地改革があり、小作人の土地所有が許されると、りんご園も増えて行きます

昭和22年には、農業協同組合法が出来て、農産物の出荷販売や権利などが守られるようになりました

同時に、農産物の育成者を保護する目的で「農産種苗法」が制定されました


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終戦直後に、青森県黒石市にある、青森県りんご試験場(現:青森県産業技術センターりんご研究所)で、続けられていた、りんごの選抜試験が結実します

守り続けていた交配試験樹の「果実形質試験」「経済試験」が行われました

「果実形質試験」とは、食味、果肉の硬軟、果汁の夥多、外形、色合いなどを選抜する試験です

「経済試験」とは、耐病性、栽培の難易、収穫量、貯蔵性などを総合的に判断し、地質や気候の適性などからの選抜試験です


日本で正式に交配し誕生した品種たち

<陸奥(むつ)>

昭和5(1930)年に、「ゴールデン・デリシャス」×「印度」を交配した実生の中の1本

試験結果「果肉は黄白色、肉質はやや粗、多汁で芳香あり、甘酸適和で食味、貯蔵性良好」とあります

陸奥と命名されたのが、昭和24年で、「農産種苗法」の第1号品種になりました


<つがる>

昭和5年の交配で「ゴールデン・デリシャス」×「紅玉」ですが、長い間、掛け合わせの「紅玉」が不明であって

種苗登録は、交雑試験から、45年後の昭和50年になってからです

両親の形状を受け継いで、肉質は緻密、果汁多く、酸味が少ない人気の品種です

世界でも人気がある品種だそうです(2002年に世界統計で21位)


<世界一>

昭和5年交配で「デリシャス」×「ゴールデン・デリシャス」

昭和49年に「青り4号」として発表されましたが、1個の重さが500gにもなる大きなりんごという事から「世界一」と言う俗称で呼ばれ、その後に登録されました

果肉は黄白、多果汁、酸味は少なく、食味良好の評価


青森県りんご試験場で誕生した他の品種

「北斗」「星の金貨」「あおり21」「千雪(ちゆき)=あおり27」などがあります

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岩手県盛岡市の農林省園芸試験場東北支場(現:果樹研究所りんご研究所)で交配育種された実生苗は

昭和14(1939)年~16年までで、総数13,775本だそうです

選抜され、淘汰され、最後まで残った登録品種が「ふじ」「あかね」「はつあき」の3本でした


<あかね>

昭和14年、「紅玉」×「ウースターペアメン」を交配して育てられた「東北3号」

昭和45年に、農林2号「あかね」と命名登録されました

果肉は白く、酸味が強い、味は淡泊


東北支場では、他にも

「はつあき(東北8号)」「きたかみ(東北2号×レッドゴールド)」「ひめかみ(ふじ×紅玉)」「さんさ(ガラ×あかね)」などがあります


<ふじ>

昭和14年に「国光(母)」×「デリシャス(父)」の組み合わせの実生で交配されました

昭和22~26年頃に結実、選抜試験を経て、昭和30(1955)年の秋、やっと納得のいく果実が結実したそうです

多果汁、甘酸適和、濃厚な味、香り良好、貯蔵良好との評価で「東北7号」となり、その後「農林1号の『ふじ』」として登録されました

交配から23年、多くの研究者の理想となる夢のりんごの誕生です


「ふじ」は、国光や紅玉を超える優良品種として大人気となり、日本だけではなく、今や世界の王座を占める品種となったのです


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群馬県の伊勢崎市にある群馬県園芸試験場(現:群馬県農業技術センター)で交配育成された品種には

「陽光」「新世界」「あかぎ」「ぐんま名月」などがあります


秋田県横手市の秋田県果樹試験場で交配育成された品種

「千秋」「アキタゴールド」など

北海道夕張郡長沼町の北海道中央農業試験場で交配育成された品種

「ハックナイン」「ノースクィーン」

岩手県北上市の岩手県園芸試験場で交配育成された品種

「黄王(きおう)」

長野県須坂市の長野県果樹試験場で交配育成された品種

「シナノゴールド」「シナノスィート」「シナノレッド」

その他、民間で生まれた品種

「王林」福島県の大槻只之助氏が、昭和27年命名「ゴールデン・デリシャス」×「印度」を交配育成、今でも大人気です

「金星」青森県の佐藤肇氏が、昭和29年「デリシャス」×「国光」を交配育成し、昭和47年に登録

「やたか」秋田県の平良木忠男氏が、「ふじ」の枝変わりから発見、昭和62年に登録

「未希ライフ」青森県の工藤清一氏が、昭和56年「千秋」×「つがる」を交配し、昭和56年登録

「秋映(あきばえ)」長野県の小田切健男氏が、「千秋」×「つがる」を交配し選抜育成、平成5(1993)年に登録

「トキ」青森県の土岐伝四郎氏が、「王林」×「ふじ」を交配育成し、平成16年に登録

「アルプス乙女」長野県波多腰邦男氏が、昭和39年に「内山紅玉」の自然交雑実生を養成し選抜した小りんご


日本人が、交配し育成した品種は、書ききれないほど多様で、面白いりんごが多いのです

まさに、モノづくりであり、芸術作品でもあるのです

これからも新品種は、続々と生まれ、育まれて行く

そんな風に続いて行けたら良いなと思います


ラストになる、その10で、全体をまとめたいと思います

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7


理想のりんご作りへと歴史が移っても、それは遠く険しい道のりでした

自然界で起こる受粉を人為的にやる「人工交配」ですが、りんごは自家受粉しない(自家不和合性)わけですから、同一品種ではなく、異品種間の交配でなければ受粉しません

また、母親となる品種、父親となる品種をも遺伝子的な相性なども選抜して、交雑して試験を繰り返します

そこには、実がなるまでの時間も必要であり、交雑試験には、かなりの時間と費用がかかるわけです


昭和初期当時の優良品種は、「国光」「紅玉」「祝」「旭」「印度」「紅魁(べにさきがけ)」などですが
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(国光)

そこに「ゴールデン・デリシャス」という黄色いりんごが輸入されて、親として選ばれました

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(ゴールデン・デリシャス)

今時なら「トキ」「黄王(きおう)」「星の金貨」「金星」「シナノゴールド」などと外見が似ている品種です

他にも「デリシャス」「スターキング・デリシャス」「リチャード・デリシャス」なども使われました
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(デリシャス)
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(リチャード)

「スターキング・デリシャス」は、「デリシャス」の枝替りで、東京の千疋屋さんが、アメリカのスターク商会から輸入して一世を風靡しました

https://twitter.com/kitakazoku2 のアイコン画像は、復刻版の「デリシャス」です

アメリカの新品種は、全て偶然実生で、人工交配品種ではありません

本場でもできなかった人工交配を、後発で栽培が始まった日本がやろうとしていたのです


須佐寅三郎氏が実験した、いくつかの交雑の中で、昭和5(1930)年に、「ゴールデンデリシャス×印度」があります

印度りんごは貯蔵が出来て甘い品種ですが水分が足りない、ゴールデンは栽培しにくく貯蔵がきかない

そこで、印度の貯蔵性とゴールデンの水分の長所を持つりんごが出来るのではと考えたわけです

同じく、「ゴールデン・デリシャス×紅玉」の組み合わせも同時に行われました


交雑してできた実の種を植えての繰り返しです

種から育てる事を「実生(みしょう)」と言います。実生の植物は「シードリング(seedling)」と呼ばれています

実生苗を選抜し、葉や樹勢を見ながら淘汰し、見込みがある苗だけを育てるのです

実がなるまでに淘汰された樹に、良い品種があったかも知れなと言うジレンマで苦しい作業だと思います


青森県では、この研究をバックアップして昭和6年に県立「萃果試験場」を設立、須佐技師が初代の場長になっています

昭和13年に国立の農業試験場が、青森県藤崎町に誕生します

そこに「新津宏」技師が赴任、さらに須佐技師の交雑試験を手伝っていた「村本政雄」技師技師も赴任します

青森県では、2つの試験場で競い合うように、交雑試験を同時に行うようになったのです


国立の試験場が目指した理想の品種は

早熟種「祝」よりも着色、品質に優れたもの

中熟種「旭」よりも酸味が少なく、着色品質、日持ちが良い物

晩熟種「紅玉」級で、耐病性が強く、着色品質、貯蔵性に優れた物

晩熟種「国光」に代わる品種で、栽培が容易で芳香を有し着色の良い物

味、色、貯蔵性、香り、作りやすい、そういう思いをかなえてくれる品種を求めたのです


すでに「祝」「国光」「印度」「ゴールデン・デリシャス」は、市場には出回っていません

個人的に栽培していたり、受粉用に樹を残している人は、いますけど、最近は見てないですね


日中戦争や太平洋戦争と勃発し、交配試験は危機を迎えます

多くの技師たちも招集されましたし、食料増産が主となり、果樹栽培は冷遇されるようになりました

肥料や農薬は配給停止になり、人手不足でりんご園は荒廃していきます

更には、りんごで「航空機燃料」を作る事を命令されたりで、昭和16年~20年に、りんごの交配は中断されています


ちなみに、戦中は、横文字が使えなかったため、全てに和名がつけられています

デリシャス=陽玉

ゴールデン・デリシャス=黄冠

リチャード・デリシャス=瑞光

スターキング・デリシャス=太陽


その9に続きます

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)


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樹は古くなると、花は咲いても小さな実しかつけなくなるようです

今の台木だと、りんごの樹の寿命は40年くらいと言われていますが

各地で残る100年超えの樹の品種のほとんどが「祝(いわい)」のようです

「江間中手」と同品種ですが、北海道では「14号」とも呼ばれます

この「祝」という名前は、当時、皇太子だった大正天皇のご成婚をお祝いして命名されたようです

少し酸味があって、ジューシーでりんごポリフェノールが多い初夏のりんごです

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今は、お盆のりんごは「つがる」に変わりましたが、以前は、青めの祝りんごが主流だったようです