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2018年03月 の記事一覧

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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その8

旧会津藩士の資料が一番ありそうなのは「余市水産博物館」なのですが、今は休館中のため手持ちの資料を探しています


まず、計良幸太郎さんが残した資料「余市駅及び附近の変遷」から

旧会津藩士の入植と余市駅

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隊長らは、今のニッカ裏手の記念碑付近に居住し、穀物倉(後に日進館、教育所となる)

この記述から、現在の黒川9丁目に住み、道を挟んで7丁目に穀物倉があり、その裏に侍長屋があったようです

ここが藩士団の中心拠点でした

7丁目の土地は、今でも宗川茂友の長女の嫁ぎ先の「杉本」家の所有地が多く残っています

黒川9丁目から東に曲がり、登街道の両側に村ごと居住しました

余市の銀座街付近は「佐藤駒之進(白虎隊半隊頭・黒川2番村長)」

その大川町側は、「在竹四郎太(二百石取黒川4番村長)」、在竹氏は余市稲荷神社(後の余市神社の神主)の所有地

登街道踏切付近から余市駅にかけては「小栗富蔵」氏で、大正時代には貸家を建てて小栗長家と称されていたようです


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宗川茂友さん関連の本を探していて、この本が届くのを待っていたので、続きが遅れました

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りんご侍と呼ばれた開拓者 汚名を返上した旧会津藩士の軌跡 単行本(ソフトカバー) – 2018/3/1
森山 祐吾 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/489115344X/

内容紹介

戊辰戦争に敗れ賊軍として北海道余市に移住させられた旧会津藩士たちは、苦難の末に「りんご王国」を築き上げた。
彼らの再生を描いた表題作をはじめ、北海道を舞台にした4つの短編秘話を収録。

〈「北海道ノンフィクション賞」受賞作品集〉(受賞順)
サンゴ礁の落日 …太平洋戦争秘話(第30回佳作)
版画に祈りを込めた男 …木版画家・阿部貞夫(第31回佳作)
至誠に生きた男 …実業家・新田長次郎(第32回準大賞)
りんご侍と呼ばれた開拓者 …旧会津藩士の軌跡(第33回大賞)

著者について

森山祐吾(もりやま・ゆうご)…北海道史研究家・ノンフィクション作家
1940年北海道オホーツク管内雄武町生まれ。中央大学卒。民間会社定年後、北海道史の研究を進める中で、時代に翻弄されながらも強い信念をもって生き抜いた人々や、意外な史実が多いことに気づく。以来、これら埋もれた歴史に光を当て、私塾「北の歴史塾」の講座や各所の講演を通して語り伝えている。
主な作品に「海の総合商社・北前船」「宗谷海峡を渡った侍たち」「北の大地を開いた薩摩人」「幕末の通詞・森山栄之助の活躍」「北海道占領をめぐる米ソの暗躍」「石川啄木の北海道時代」などがあるが、いずれも未刊行。

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中西出版
りんご侍と呼ばれた開拓者─汚名を返上した旧会津藩士の軌跡
http://nakanishi-shuppan.co.jp/archives/6080/



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■宗川茂友の帰郷

宗川家が帰国したのは、明治11年か12年と推測されています

次男の虎次の著書に

「明治11年、余は父に先だちて北海道より会津に帰り・・・」という記述がある

宗川家は、明治5年の黒川村畑作開墾帳から、抜群の実績をあげて、総取締役としても模範となっている

もし、役人として残れば、生活も安定し良い地位を得られたと思われます

それなのに、何故に帰郷したのかについて、前田氏は理由をあげています


第一として、宗川茂友の任務がいちおう終わった事です

北海道移住団の中隊頭としての任務は、樺太開拓使の保護扶助受けるように決定した時で解消した事

宗川茂友は、1団員として余市郡に入植し、改めて投票によって総取締役に選ばれた事から

当初の任務が終わった事が根拠としてあると言います


第二に考えられるのは、父茂弘の高齢にあるという

明治10年で、茂弘は満80歳となっています

誠忠無比と言われた茂弘の渡道は、ただいちずに旧主と1藩の謹慎が解かれるのを願っての事でした

その謹慎も解けています

毎朝先君の霊を遙拝するときに、浮かぶのは懐かしい故郷の山々であり、2代の君主の姿や旧知の人々の顔であったという

それは、孝心深い茂友に帰郷を決意させた一因では無いか


第三の理由は、一子の虎次は頭脳明敏で学問に優れていましたが、歩行が不自由であったという

北海道の開墾は簡単では無いと身をもって体験した茂友は、未開の北辺で虎次が農民として生きる事の不適を悟ったのではという


明治10年は、余市に入植して7年目となり開墾地が付与され各自の所有地となり、一段落しました

茂友に帰郷の決意をさせる節目だったのかも知れません


葛西富夫著「北の慟哭 : 会津・斗南藩の歴史」の中では、宗川茂友について

「総取締役の任にあった宗川熊四郎茂友さえ、余市を放棄して、さっさと会津に帰還した・・・」と書かれているのですが

理由なく、帰郷だけをクローズアップされては、開墾の努力も浮かばれません

会津に戻った茂友は、明治25年、会津尋常中学校の武芸教師に嘱託され、明治37年3月8日満74歳で生涯を閉じています


■次男「宗川虎次」

宗川家の家督は、茂友の次男の虎次に受け継がれます

虎次は、文久元年6月生まれ、頭脳明敏で余市日新舘・黒川郷学所に在学中も頭角を抜いていて、開拓使から褒賞を受けている

会津に戻った虎次は、後年になり「補修会津白虎隊19士伝」を著している

この本は、会津戊辰関係5大名著の一つに挙げられています

後に東京帝大総長の山川健次郎氏が補修を加えて大正15年に初版を出版しています


茂友の長男の虎松は戊辰当時17歳でした

まだ白虎隊編成前でしたが、数名の年長者と井深隊に入り越後方面に出陣します

9月1日に負傷し、同16日に戦病死しています

虎松が、陣中から父母に送った手紙には、戦死を覚悟し、白虎隊士に劣らない会津士魂をあらわす遺書と言われています


■白虎隊


余市黒川小学校の前身の余市尋常高等小学校時代、運動会では「白虎隊の剣舞」がありました

『霧のごとく乱れくる敵の弾丸ひき受けて、命を塵と戦いし37の勇少年、これぞ会津の落城のその名も聞こえし白虎隊』

ググってみますと

http://www.niks.or.jp/~ja0jac/

昭和04年(1929年) 唱歌 歌詞附
会津若松第一小学校
第一白虎少年団

※現在では「白虎隊」の歌と言えば、昭和25年(1952年)発売の古賀政男作曲の「白虎隊」一辺倒ですが、それ以前はこの「白虎隊の歌」が明治37年以来歌い継がれてきた。0535tomb1兄のコメントによると、終戦の昭和20年までは「白虎隊の歌」しかなかったとの事ですが、今ではこの歌を知る人は殆どなく忘れ去られた歌のようです。「会津若松第一小学校 第一白虎少年団」が今も存在しているのか解りませんし、どのような経緯でレコード吹き込みにいたったのかも解りませんが、この名曲を後世に残してくれた事に感謝いたします。

霰のごとくみだれくる 敵の弾丸ひきうけて
命を塵と戦ひし 三十七の勇少年
これぞ会津の落城に その名聞えし白虎隊

味方少なく敵多く 日は暮れはてて雨暗し
はやる勇気はたわまねど 疲れし身をばいかにせん
倒るる屍、流るる血 たのむ矢玉もつきはてぬ

残るはわづかに十六士 一たびあとに立ち帰り
主君の最後にあはばやと 飯盛山によぢのぼり
見れば早くも城落ちて 焔は天をこがしたり

臣子の務はこれまでぞ いでいさぎよく死すべしと
枕ならべてこころよく 刃に伏しゝ物語
傳へて今に美談とす 散りたる花のかんばしさ 
※この歌詩は明治37年の国定小学読本(高等科)に掲載されている。

白虎隊の歌 (会津若松第一小学校)

https://www.youtube.com/watch?v=-573mepowSU

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白虎隊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/白虎隊

白虎隊(びゃっこたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。

幕末の会津藩が組織した部隊には他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「白虎」からである。

概要[編集]

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。

白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、前装装条銃)のみであったとされる。これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた(そもそも東北諸藩のほとんどは、旧式軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入していた)。

会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。

しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災(もしくは城周辺から上がる湯気)を目にし落城したと誤認して悲観したとされているが、飯沼が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(飯沼からの聞き書きに飯沼本人が朱を入れたもの)によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。

途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。

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白虎士中二番隊[編集]

隊長
日向内記

小隊頭
山内弘人 
水野祐之進

半隊頭
佐藤駒之進 
原田克吉

隊士 

安達藤三郎※ 
池上新太郎※ 
石山虎之助※ 
井深茂太郎※ 
片峯祐之進 
笹原傳太郎 
篠沢虎之助 
庄田保鉄 
多賀谷彦四郎 
津川喜代美※ 
永瀬雄次※ 
江南哲夫
成瀬善四郎 
野村駒四郎※ 
原鋧三郎 
間瀬源七郎※ 
簗瀬勝三郎※ 
矢島八太郎 
有賀織之助※ 
石田和助※ 
伊東悌次郎※ 
伊藤俊彦※ 
伊東又八郎(伊藤又八)
飯沼貞吉※ 




白虎隊の所属だった人物に「佐藤駒之進」という名前があります

彼は戦死したと思われていましたが、明治2年9月の北海道移住第2次隊の小隊頭となって大阪丸で渡道していました

そして、余市に移住し黒川村第2班の村長となっています

佐藤駒之進が白虎隊の将校だった事を語った事は一度も無かったそうです

池上新太郎は、佐藤駒之進の姉の子供で甥という存在が、自分の隊員でありながら自決した事もあったのかも知れません

佐藤駒之進は、一切の公職にもつかず、沈黙のまま開墾に明け暮れ、大正2年1月7日76歳で没しています

駒之進の子孫は、今でも余市町でりんご栽培を続けています

昭和42年まで、会津若松では佐藤駒之進は戊辰戦争の死者とされていましたが

前出の「計良幸太郎」氏が、駒之進の晩年の写真を添えて白虎隊記念館長に伝え、訂正されたそうです


他にも、白虎隊からの余市移住者の方々(敬称略)

士中一番隊から「木村直人」「中山覚」

寄合一番隊から「島影幸次郎」二番隊「金子新六」「吉田豊記」「鈴木平助」

足軽隊から「本名信吾」


将校としての寄合一番隊小隊頭が「在竹四郎太」氏です



次回は、ケプロンと余市に関連したまとめです

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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その4
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その6
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その7
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前回のルイス・ベーマーについての追記です

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ベーマー

べーマーの偉業をたたえ、べーマー会があります

「べーマー会」Boehmer Club
http://luisboehmer.com/

べーマー会では、余市のシリパ岬を望む山本観光農園に記念碑を建てています

「透明りんご」をイメージした記念碑です

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その新聞記事
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山本観光農園
http://www.fruits-yamamoto.net/


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■隊長「宗川熊四郎茂友」

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「宗川茂友」氏が、会津藩の北海道移住で隊長を任された経緯は良くわかっていません

蝦夷地行きの志願者の中から選ばれたのか、藩の命令によるものだったのでしょうか

茂友の父は、茂弘と言い、鶴ヶ城籠城の時に入城し、開城後にはしばらく米塚村に居たそうです

この時、茂弘氏は60歳を超えていたため、60歳以上は会津の在所で100日間の謹慎だけで、収容所へは行かなかったのです

10月初めには息子の茂友の妻子と一緒に河沼郡笈川村鴻巣又吉方に預けられています

茂弘・茂友親子が、蝦夷地へ出発する際に、藩主の容保公は短冊に一首を与えています


蝦夷地にゆくと聞いて

我はまだ蝦夷氏知らねども蝦夷が嶋

寒しと聞けば心して住め
     
        容 保


茂友の任務は藩公と一藩に代わって隊士を引き具し、未知未開の蝦夷地に渡り、新政府兵部省の指揮に従う事でした

元とは言え、26万石の殿様から格別の餞の言葉を戴いた宗川親子は、感激し蝦夷地に骨を埋める覚悟だったでしょう


「宗川茂友」は、熊四郎茂友ですけど、勇之進茂弘の3男として天保元年12月5日に会津若松城下に生まれます

2人の兄は天折したため、茂友が家督を継ぐ事になったのです

   嘉永6年10月、江戸表江罷登発之御目申上候

茂友は、23歳と10か月で初御目見となります

この頃は、日新館で武術の鍛錬に励み、宝蔵院流槍術を師範安藤市蔵に学び、名手となっています

お目見えの翌年には、御備組付となり、安政6年には武芸が認められて御供番に加えられ、藩主容保公の身辺護衛役として終始します

京都守護職時代も、会津戦争に籠城するまで護衛役をしています

「お殿様の御護衛役として、常に影の如くお仕えして来ました」(宗川ミヨさん談)


祖父の茂京、父の茂弘は、共に藩主の侍講で、叔父の茂は勝れた学者でした

家系的には、武道では無さそうですが、茂友は槍一筋の武人となったのです

慶応4年以降は、護衛や軍事方、歩兵隊などを経験し、9月に砲兵仮番頭となっています

鶴が城籠城の時は、砲兵2番隊隊長だったようです

これ以降の、茂友氏に関する履歴は残されていません


北海道移住以降の履歴が残っていないのです

渡道以降の記録は、他の文書や文献からの推測となっています

小樽上陸の頃の記録としては、「オタルナイ騒動」があります

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明治2年9月、渡道した茂友一家の構成(内は年齢)

父-「勇之進茂弘」(72)
妻-「須美」(34)
長女-「登良(とら)」(13)
次女-「未津(まつ)」(11)
次男-「虎次」(8)
*長男の虎松は戊辰戦争で戦死しています

譜代の家来
白藤又作(27)
和気慎太郎(23)和気長吉(21)


余市移住前に譜代の家来は自由となり、和気長吉のみが独立して開拓の1員になっています

また、長女の登良は杉本弥三郎氏のところへ嫁いでいます

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小樽に上陸してから、余市への移住までの1年半

この「宗川茂友」という隊長が居なければ、乗り越える事は出来なかったと思います

黒田清隆氏への陳情の成果で、藩士の去就の制限は余市に入植しなくても良かったわけです

茂友氏の隊長としての任務も、この時点で終わっていたものと思われます

しかし、多くの藩士とともに余市に移住し移住後は、総取締となります

開拓使は、茂友に明治4年に「開拓使権少主典」に任命、以後次の辞令が残っています

明治5年8月25日任少主典
明治6年4月29日移民取締差免更余市詰申付候事
    7月2日河西河東両村取締専務申付候事
明治7年1月17日余市郡移民開墾勉励産業の道相立兼て勧誘行届候段奇特に付御賞として金7円5拾銭被下候
    7月17日依願免本官
       山田黒川両村戸長申付候事
       一金3拾7円5拾銭月給1か月半分 右は満3か年勤続に付被下候事
明治8年10月14日依願余市郡黒川山田村戸長差免候事

開拓使側は、宗川茂友氏を役人として用いようとしていますが、本人は辞退の念が強いように見えます

明治7年には、開拓使権少主典を辞任願を出していますが、その理由として

「自分も開拓者の一人である。しかるに官途にあっては他の人に悪い・・・」と書いています

それを受けて、開拓使はその日に戸長に任命しています

金銭的には、少主典は25円で、戸長は10円ですから、金銭では無かったのでしょう

茂友は、戸長も明治8年10月に辞任していますから、たったの1年で辞任しています


当時の茂友一家の居住地は、現在の開村記念碑付近となっていますから

本間商店としても、大きな縁を感じてしまいます

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■資料:余市町指定文化財「開村記念碑」
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-919.html

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茂友の父の茂弘は、寛政9年9月6日に安衛門茂京の長男として生まれ、容敬公、容保公と2公に侍講として仕えました

忠誠心が強く、72歳で茂友一家と共に蝦夷地へ渡る決心をしたのも藩公の謹慎が解かれる事を願う一心からでした

茂弘は博識で、一時札幌の資生館の教師として招かれましたが、余市に日新館が開かれた事から「開拓使御用係」となり藩士子弟の教育に携わりました

茂弘は、明治11年会津へ帰り明治15年85歳で没しています


父と同じで、熊四郎茂友も君主のために生きた忠誠者でした

容保公がお手元不如意と伝え聞き、自分が得た給与の中から、時折お見舞いとしてお金を送っています

容保公は、茂友の篤い心に対して次のように贈っています


こころざしのあつかりきをよろこびて

蝦夷といへばはるけきものを

遠しともなさでこころはこぶ嬉しさ

            容 保


この短冊は、宗川家の家宝として保管されているそうです



長くなりましたので、次回へ続きます

次は、宗川茂友一家の事情と帰国、白虎隊、士族への復帰などを中心にまとめます

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その6


戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
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http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1004.html



■日本で初めてのりんごが実る

開拓使からりんごの苗を配布された旧会津藩士が、ついにりんごの実を結実させます


余市りんごの初収穫の様子を、川端義平氏がこう表現しています

***「川端義平」さんは余市在住の作家の「朝谷耿三」氏、著書に「余市物語」などがあります***

「つるべ落としに北国の秋が去ろうとする頃、赤羽源八の「緋衣」が6つばかり、金子安蔵の「国光」が7つほど、乙女が恥じらうように葉の間から色づいた姿を見せた。

人々は、これが役人の言った滋味にして栄養豊富な珍果りんごと言うものかと木の元に集まった。

赤羽源八は成功の感謝と神々への感謝で、もぎとる手が震えた。ずっしりとした手ごろな重みと感触は永年政府に持っていた不満も拭い去る高貴さを感じた・・・」


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りんごを実らせたのは、偶然では無く、国光を実らせた「金子安蔵」は、開拓使の農業現術生として修業した成果であったとも考えられます

明治9年札幌農学校(現北海道大学)が開校する以前の明治7年の8月14日の記述に

金子安蔵氏は、4等現術生徒(6円)という辞令を出されています

現術生として、果樹栽培を学んだ金子氏が、配布されたりんごの苗を大切に育てた成果だったようです


■りんご栽培に関しての功労者

余市会津藩士団からの現術生の記録

明治7年 中田常太郎(1等生徒)東 轟(4等生徒)
明治8年 東 蔵太(4等生徒)川俣友次郎(4等生徒)
明治9年 木村猪和雄 横山留三 

金子安蔵さんは、明治12年に1等生徒となっていますし、明治17年には勧業課農務係判任官の辞令で月棒10円の記録があります

川俣友次郎さんは、りんご栽培に尽力され、その後町議となり産業功労者となっています

東 蔵太さんは、一時期は開拓使に勤めていますが余市に戻って、りんご栽培の功労者となっています

余市会津人の3元老の一人「三宅権八郎」氏は、果樹・畑作のために余市町農会の創設に奔走し、農会長となった功労者

小栗富蔵氏は、りんご栽培の傍ら、余市りんご購買販売組合(後のりんご同業組合)を設立しました

その組合長を引き継いだ、水野音吉さんは、明治39年にはロシアにも輸出する道筋を作った人物

余市農業の発達史には、病害虫防除の功績として、伊藤甚六、百瀬清三郎、石山亀次郎、黒河内辰巳、さんたちの名前が残されています


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(小樽・後志の歴史:郷土出版社)より

記述者の菅原一也さんは、余市文芸42号(2017年3月)の中で「会津藩士の墓場山」「日進館」などについて詳細に書かれています

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余市農業発達史によると

明治12年、余市山田村の金子安蔵の畑で49号(国光)と呼ばれるリンゴが複数の実を結んだとあります

同じく赤羽源八の畑でも19号(緋の衣)が結実したとされていて、これが「余市リンゴのはじまり」です

このリンゴを結実させた苗木は、明治8年に開拓使から贈られた物です

当時開拓使では、明治5年3月、アメリカからリンゴ、梨、桃、プラム等の苗木を輸入すると伴に、その栽培の指導者としてルイス・ベーマーを雇い入れています

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ドイツ人の庭師とも言われていますが、北海道の気候がドイツに近かったのも影響があったのでしょうか

昨年に書いた「りんごの歩んだ道」でも書いたと思うのですが
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-996.html

東京の官園でルイス・ベーマーが教えた簡便で確実なリンゴの接ぎ木法が、開拓使だけではなく各地に行き届いたからでしょう

明治5年、ベーマーが指導する東京青山の官園に、余市から中田常太郎という元会津藩士が「農業成育方」として派遣されています

ベーマーは、明治7年、植物の生育分布調査で半年ほど北海道を廻る中で、7月26日に10名余の従者と伴に回路古平を経て余市の地を踏んでいます

明治3年浜中町に明治政府の開拓使出張所が設けられていたこともあり、開拓使の用命で東京から出向いてきたルイス・ベーマー一行は厚い歓待を受けたようです

翌明治8年、ベーマーによって品種名と番号で管理されたリンゴの苗木が北海道各地に配られたわけです

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ベーマー

ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。

(抜粋)

ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。

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前田克己氏の会津藩士物語は、多くの会津藩士にスポットを当てて書いています

その中でも、旧会津藩士を余市に移住させた功労者の隊長「宗川茂友」氏について多くのページを使っています

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「宗川茂友」とGoogleでググってみても、ヒットするのは、蝦夷地へ移住した旧会津藩士の隊長としての活躍が主です

また、余市に移住後、明治11年か12年に帰郷しています

元々、余市移住の藩士団は京都守護職以来、幕末の戦火をくぐって来た歴戦の強者でした

渡道は応募という事だったのですが

「家老の萱野権兵衛の一味枝幹という名目で蝦夷地へ流罪」と考える者もいますし

「主君の松平容保公ならびに一藩に代わっての渡道」「旧藩渡道のさきがけとして」と思う人もいます

ですから、旧藩士には賊軍という意識は無かったと思われます

しかし、現実としては、渡道後の一か月後には、会津藩は謹慎を解かれ、斗南藩へ移封となるわけです

何のための渡道だったのか、移住組の藩士の多くはそう思ったでしょう

また、兵部省と開拓使の対立にも巻き込まれ、多くの矛盾や問題点を抱えたまま、未開地で不自由な集団生活ですから

多くの不満で暴動を起こしても不思議では無いような状況下に置かれたのです


この状況の藩士団をまとめ、交渉し、移住藩士の生活の全てを指揮し、移住を成功させたのが「宗川茂友」氏だったのです

自らも、未開地を開墾しながら、指揮をとり、まとめ役となった隊長の宗川茂友さんとは、どのような人物だったのでしょう



その7に続きます



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吉田観光農園でとれた「緋の衣」

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駅前の山田商店さんの木箱用の貼り紙(山田商店さんは2017年2月で閉店しました)

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「国光」の画像が無くて、Wikiから借りて来ました

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%89_(%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4)

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その5


戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1000.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1001.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1002.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その4
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1003.html



■血判書

明治4年正月、開拓使小樽仮役所で、斗南藩代表の「広沢安任」氏と樺太開拓使監事「大山壮太郎」との間で移民の受け渡しが行われました

この時の藩士団は、隊長「宗川熊四郎茂友」氏を筆頭に193名が血判の受書を提出しました

これが「血判書」です

受書=請書で、誓約書とも言えます

(余市水産博物館に、旧会津藩士から寄贈された「御受書」が現存しています)

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御受書

別紙御規則に隨い実行を以可奉天恩之処万一御法度に背き産業等を惰候輩は其品により厳科可被仰付趣奉畏候、右御受申上候   以上

明治4年未正月元日

宗川熊四郎(ほか192名)


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この血判書は、藩士の一人「東(とう)」氏が長い間所蔵していて、余市町に寄付されたものですが

本来なら、樺太開拓使に提出したはずですから、残存しているのは副本もしくは控えだったのかも知れないですが

余市町史4によれば、副本ではなく、後年に何らかの目的、例えば「士族復籍」などのために作製したものと考えられると書かれています

血判書の末尾に別筆で書き加えた氏名もあり、斗南藩経由は18名であり、他は第3次隊もしくは、1~2次隊の子弟だそうです


樺太開拓使は、明治4年8月に廃止となったため、全ての移住者は北海道開拓使の管轄となりました


■黒川村・山田村の誕生

明治4年1月1日をもって、血判の受書を提出して余市郡シュプントに移る事になった藩士団

2月になり雪中から伐り出した木材で、最初に建てたのは給付される玄米を貯蔵するための「積殻倉」でした

3月には家を建てる場所を作り、登川に幅8間の橋をかけ「新開橋」と名付けます

5月には1村に1づつの公衆浴場も完成し、子弟教育のために寺子屋も建てています

幹部は戸建てでしたが、多くの家屋は5戸長屋、6月には小樽から荷物も届き、7月には入地が完了しました

余市町史より
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血判書の氏名を調べると193人のうち、親子とも記名は3組、兄弟の記名は分家と考えると

実個数は190戸となるため、全員が入植したのでは無いと言う

北海道開拓使報文や、北海道庁植民状況報文などの公式文書にはこう書いてあります

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「明治2年小樽港に抵る者百戸」

「明治4年先つ仮に余市に居らしめ後之を樺太に移さんとす因て漸次此に来往する者、百六十九戸遂に聚落を成す・・・・」


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公文書の記述と実際の入植戸数が違っています

前述では、第1次隊は103戸、第2次隊が108戸であり、血判書では190戸、公文書では169戸です

この戸数の違いは、入植が完了する6か月間に入植に加わらなかった人たちが居たという事のようです

宗川熊四郎茂友の譜代の家来である白藤又作・和気慎太郎などもいなくなっているようです

明治4年には第3次隊が来ました

それまで、何らかの事情で移住が遅れていて、芝の増上寺山内の搭中に分散宿泊していた人たちです

取締役は三宅安蔵氏で、戸主はすでに渡道している家族は33世帯の98人、戸主及び家族ともは13戸55人の153人


■屈辱の日々

血判書まで提出し、決意を持って入植した旧会津藩士ですが

当時の余市には、すでに先住の人たちが住み、経済力のある漁業家や商家や寺社もありました

葬儀を出す際に、会津は逆賊扱いされ断られ、会津藩士は改宗して神徒になったそうです

隊長の宗川家も会津時代には浄土宗でしたが、この件以降は、ずっと神徒だそうです

鰊漁に出面稼ぎに出かけるような事も武士にとっては、屈辱でした

さらに、3年間の扶助がうち切られる前に、自己生産を持って生きていかなければならないという事情もありました


北海道の先住民であるアイヌ民族には、農耕文化がありません

そのまま残っている原生林を開墾するための道具は、開拓使から提供されたとは言え簡単には進みませんでした

いよいよ扶助が切れるという明治6年、開拓使はノルマ(1町1反)を与え、達成者には奨励金を与えました

奨励金のおかげか、開墾の成績が格段に上がったようです


明治7(1874)年の10月から

農業現術生徒の福本政寛氏と藤吉五郎氏が助手を伴って西洋耕作機械で新しい農法と機械の取り扱いを教授しました

アメリカ近代農業技術を学び普及は、開拓使によるデモンストレーションでもありました

教えを受けたのは、長崎尚志らの10名との記述があります

馬を使い20日間で約5町歩の畑を耕起し、これからの開拓に馬耕が必要だと深く感銘を受けたようです

中でも、副戸長の在竹四郎太は、開拓使に札幌官園での実習を申し入れました


1棟5戸を5家と言い、伍長を置き、5家を5~6組まとめて1村長を置きました

以下は、各村長です

川の東には

1番村---杉本弥三郎、2番村---佐藤駒之進、3番村---武藤格弥、4番村---在竹四郎太

川の西には

上村---一柳平太郎、下村---落合恒三郎

入植後に、川東村は「黒川村」、川西村は「山田村」となりました

命名には、黒川村は、開拓使の「黒田清隆」氏と総取締の「宗川茂友」氏から1文字づつ

山田村は、「黒田清隆」氏と樺太開拓使監事の「大山壮太郎」氏から1文字づつ合わせたそうです

また、一説によれば、会津若松の古名が「黒川荘」で川の名前にも「黒川」がある事からとも言われています

山田の「田」は、開拓使余市出張所の「吉田大主典」の田をとったともあります


明治7年には、黒川村山田村が使われています

余市町史より、明治7年の黒川村山田村の蒔き付け面積

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明治33年の記録の、土地3町歩以上の所有者名簿に82人の名前があります

その名簿の中に、何と19名の旧会津藩士の入植者の名前が載っているそうです

19人の平均面積は、約5.1町歩で、会津藩士以外は、漁場経営者だけでほぼ不在地主です

会津藩士の能力の高さに、驚きますね



そして、旧会津藩士が、日本で初めてのりんご栽培への道にと続きます




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