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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
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■招かれざる客

蝦夷地(北海道)へ第1次隊が上陸して、わずか1週間後の事です

明治2年9月27日、政府は松平家の家名再興を許す事を決め、願い出るようにとの通達を出します

宿願であった謹慎が解けていたのです

松平家では、容保公の実子の慶三郎(1歳)を立てて家名再興の願いを出し、

その後、11月3日に陸奥下北南部に2戸・3戸などに、3万石を与えられたのです

*(目安として、1万石で1万人が養えるようです)


当時の情報伝達であっても、この情報は、すぐに北海道に移住した旧藩士たちにも伝わりました

「もう1か月出発が遅かったら、こんな未開の蝦夷地には来なかったのに」

「主君免罪の名目で、われわれをだました」

「何のために来たのか、主君と藩士の謹慎解除のためだったはずなのに」

多くの不満を呼ぶ事になったのです


青木日記によると

明治2年17日付けで

三人の隊員が「公私慎の姿を似て屹度慎被仰付候事」とあり、20日目に許され、うち一人は取締役を解雇されている

明治2年11月27日付けでは

「佐藤寅之助と申者清水金五郎、広瀬新吉と申者共江ケンカ致候事」とあり

翌日には「晦日 今晩、佐藤寅之助落命致候、天朝の御役人御改に御出に相成候」

これらの記述から、ケンカが常態化して絶えない様子が伺えます

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「青木日記」

第1次隊の藩士の青木寅之助氏が、明治2年9月21日から3年4月16日までの事をメモしていた日記

10月から会所勤めとなり、人の出入りや藩士家族の生活なども書かれている

小樽での生活に関する唯一の貴重な資料です。日記の所有者は、札幌市の青木義雄氏

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■石狩入植の中止

明治2年7月、明治新政府は北海道開拓使を設け、8月15日には「松浦武四郎」案に基づき

蝦夷地は、正式に「北海道」と命名されました

9月には、開拓使長官の東久世通禧氏が函館に到着し、札幌への拠点として、30日には開拓使出張所が出来ます

一方、兵部省は、先駆けて小樽に出先を置き、支配地に「石狩・小樽・高島」などを管轄下にしました


開拓使は「佐賀藩」

兵部省は「長州藩」

ここでも、藩閥の対抗意識があったわけです

しかも、犬猿の仲です


兵部省は、先に来道した結果、石狩や銭函の港を押さえ、開拓使側に糧食米を運ばせなかったそうです

開拓使側は、各場所の運上屋場所請負人に任命して、手持ちの米を集めたというエピソードもあります

**余市運上屋の「林長左エ門」氏も、少主典に任命され、米百俵を送っています**


開拓使と兵部省は、その後も対立した事で、会津藩士の命運も変化して行きました

開拓使は、札幌を管轄地とします

兵部省は、会津藩士を石狩当別に入植させるという計画で進めていました

兵部省は、札幌周辺の開拓に成功していた大友亀太郎氏を石狩国兵部省出張所開墾係に任命

12月に結氷を待って、石狩川を渡り会津藩士と木こりで雪の原野を測量し、住宅用の木材も伐採しました


この時に同行した会津藩士の記載が、前出の青木日記に書かれています

明治2年10月12日

「佐竹四郎太殿二宮俊蔵殿細谷伴助殿山内直之助殿石黒信太郎殿松本原之助殿、トウベツ方面へ罷越」

この藩士は10月25日と11月7日に別れて帰り、11月8日には落合恒三郎、阿妻が出張、12月15日には隊長宗川茂友も石狩当別に出張している

明治3年2月2日

「後者の分は石狩江別移候様、先着の分は高嶋・熊臼引移候様仰聞候」

3月18日「隊長トウベツノ方面へ出張候事、お供ニテ石山・青木」


しかし、大友氏によって進められていた当別移住計画は、突如として中止となったのです

理由は開拓使と兵部省の力関係が変化でした、明治政府が開拓使に引き渡すように命じたのです

兵部省は、陸海軍省に移行する計画だったようです

政府のやり方に嫌気がさした大友氏は辞任しますが、慌てた開拓使側は、開拓使掌に任命するも即日辞職して6月には離道してしまいます


3月になり、時期は鰊漁期に入り、小樽高島への移住組(鰊番屋住み)が、全員が石狩に移住しなければならなくなったのです


そして、余市へとなるわけですが

君たちはどう生きるか状態ですよね

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その4へと続きます


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当時の蝦夷地は、西と東に分けられていました

東側は「アイヌ居住区」として残し、境界線を作って対立しないように配慮していたのです

明治政府は、西側しか開墾出来なかったのです

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余市運上屋の資料
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