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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その4

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1000.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1001.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1002.html


若林功(若林功七)氏の「北海道開拓使秘話第3巻」によると

「進退維谷り(しんたいこれきわまり)」という記述があります

20180222-sim.jpg

■進退維谷り

兵部省と開拓使の対立は、会津藩士たちへ大きな影響を残しました

石狩・小樽・高島の支配が、開拓使へと引き継がれたわけですが

開拓使は、兵部省からの引き継ぎを無視し相手にしなかったため

兵部省は、政府に藩士団を旧藩士へ返還するように要請します


しかし、旧藩主は、西軍からやっと許されて斗南藩3万石に移るために、四苦八苦の最中です

結局、北海道へ渡った旧藩士は引き取れませんでした

斗南藩は、開拓使へ引き取れない旨を願い出ましたが、開拓使は相変わらず冷淡な対応をします

兵部省と開拓使の縄張り争いに巻き込まれて、移住先が決まらないという状況なのです


まずは、今住んでいる鰊番屋は、ニシン漁が始まると出なければなりません

帰る藩も場所も自由も無く、独身の藩士の中には脱藩者(行方不明)まで出てしまいました

雪が消えるまでに移住先を決めて、雪解けと同時に開墾に移らなければなりません


明治3年2月に、樺太開拓使が設置されました

そして、5月には「黒田清隆」氏が、北海道開拓使次官となり樺太開拓使専任として赴任します

移住先も決まらないままの会津藩士たちは、黒田氏に嘆願書を出したようですが、詳細は不明です

黒田清隆氏と言えば、西軍薩摩藩の参謀であり、旧とは言え敵側の大人物

そこに願い出るわけですから、気持ちは複雑だったのでは無いでしょうか

20180222-Kiyotaka_Kuroda_formal.jpg


黒田清隆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田清隆


結果、黒田清隆氏が、その願いを受け入れる事になるわけです


宗川茂友家の家宝として、藩士団の懇願を承諾した旨の書簡が現存しているようです

**********

前文略す

指て過日より御示談之をたるない江

同藩之仁者昨日小生御引受辯官より

民部省江御藩江其儘住居又者帰藩之者

分別を付け御願書差出さる、方に内決

以堂し候之由内密御案内申し植え置候

尚書余拝願之上に奉存候 早々拝具

11月4日      黒 田 拝

廣沢君

宗川君


(漢字はそのまま、カタカナ→ひらがなにしています)

*********

11月4日とは、明治3年、宛名は「廣沢安任」氏と、前出の「宗川茂友」氏です

廣沢安任」氏は、2013年、NHK大河ドラマの『八重の桜』(岡田義徳さん)にも登場しましたね

20180222-HirosawaYasutō


広沢安任 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/広沢安任

広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。

広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。

その後、会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後に廃藩置県により斗南県となっていたが、斗南県小参事となった安任は、困窮にあえぐ自県の救済策として弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事・太田広城と両名で、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)の成立に至っている。

また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、明治5年(1872年)に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした。当初は地元の反対、資金難に苦しんだが、内国勧業博覧会で馬、牛が龍紋賞を受賞している[1]。、なお、明治9年(1876年)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿・大久保利通が牧場を訪れ中央政府の要職を準備して仕官を薦めたと言われており、その後も幾度か政界への勧誘があったと言われているが、「野にあって国家に尽くす」として固辞し、畜産・酪農に生涯をささげた。養嗣子に甥の辨二を迎えた。辨二は駒場農学校を卒業した衆議院議員である[2]。


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宗川茂友」氏については、余市町のHPにも詳しく載っています

https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/kouryuu/aizu.html

福島県の西部、会津盆地の東南に位置し、若松城や白虎隊で有名な会津地方の中心都市です。明治4年に会津藩士の方々が入植され、日本ではじめてリンゴの栽培に成功しました。

 古くからゆかりのある両市町において、平成27年10月に交流の絆をさらに深めるため親善交流都市の締結をしました。
 HP:http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/

会津と余市町の歴史

会津藩士とリンゴ

 余市を代表する産物と言えば「リンゴ」というのが北海道人の連想ですが、リンゴが余市に根付くまでには、明治初期に本町に移住してきた会津藩士の苦難の歴史がありました。
(このコーナーは、福島県会津若松市とのホームページ相互リンクを記念して掲載しました。)

藩士団、余市へ

 明治2年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まりました。同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後オタルナイへと到着しました。
到着後しばらくは兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、最終的に余市へ移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた明治4年4月のことでした。

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そして、明治3年12月に、樺太開拓使の費用をもって、小樽在住の旧会津藩士は救済される事になりました

もう逆賊でも流罪人でも無く、旧藩への復帰とされ、ようやく救われる事になりました

仮の移住という名目で、年明けを待って余市川下流の未開地、当時の地名で「余市郡シュプント」への移住が決まりました

「シュプント」とは、アイヌ語で、シュプン=うぐい、トー=湖沼

余市へ移住した後に、「黒川」「山田」という町名を付けたのも、黒田清隆氏への感謝なのでしょうね

20180222-kurokawayamadamura_0.gif


この地域の利点は、水運が良く、洪水期にも水没しないし、比較的肥えていて、しかも無人地域でした

木材などを運ぶにしても、陸路は未開ですから海川に面していないと運べなかったのも大きいでしょうね

この頃の余市は江戸時代から移住者がいました

余市は泥炭地が多く、大雨でも水がつかない地域の大川町や浜中は、すでに居住地となっていました


明治2年の初冬から、1年3か月、ようやく生きる場所が見つかったわけです

移転先が決まった事で、青森の南部から木材を買い函館で切り込み、余市へ送られ準備が整いました

20180222-nyuushokuzinokyotaku_0.gif

昭和43年頃まで残っていた入植時のおもむきを残す居宅の写真



次回は、余市移住後の旧会津藩士のお話しになります


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