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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その5


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■血判書

明治4年正月、開拓使小樽仮役所で、斗南藩代表の「広沢安任」氏と樺太開拓使監事「大山壮太郎」との間で移民の受け渡しが行われました

この時の藩士団は、隊長「宗川熊四郎茂友」氏を筆頭に193名が血判の受書を提出しました

これが「血判書」です

受書=請書で、誓約書とも言えます

(余市水産博物館に、旧会津藩士から寄贈された「御受書」が現存しています)

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御受書

別紙御規則に隨い実行を以可奉天恩之処万一御法度に背き産業等を惰候輩は其品により厳科可被仰付趣奉畏候、右御受申上候   以上

明治4年未正月元日

宗川熊四郎(ほか192名)


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この血判書は、藩士の一人「東(とう)」氏が長い間所蔵していて、余市町に寄付されたものですが

本来なら、樺太開拓使に提出したはずですから、残存しているのは副本もしくは控えだったのかも知れないですが

余市町史4によれば、副本ではなく、後年に何らかの目的、例えば「士族復籍」などのために作製したものと考えられると書かれています

血判書の末尾に別筆で書き加えた氏名もあり、斗南藩経由は18名であり、他は第3次隊もしくは、1~2次隊の子弟だそうです


樺太開拓使は、明治4年8月に廃止となったため、全ての移住者は北海道開拓使の管轄となりました


■黒川村・山田村の誕生

明治4年1月1日をもって、血判の受書を提出して余市郡シュプントに移る事になった藩士団

2月になり雪中から伐り出した木材で、最初に建てたのは給付される玄米を貯蔵するための「積殻倉」でした

3月には家を建てる場所を作り、登川に幅8間の橋をかけ「新開橋」と名付けます

5月には1村に1づつの公衆浴場も完成し、子弟教育のために寺子屋も建てています

幹部は戸建てでしたが、多くの家屋は5戸長屋、6月には小樽から荷物も届き、7月には入地が完了しました

余市町史より
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血判書の氏名を調べると193人のうち、親子とも記名は3組、兄弟の記名は分家と考えると

実個数は190戸となるため、全員が入植したのでは無いと言う

北海道開拓使報文や、北海道庁植民状況報文などの公式文書にはこう書いてあります

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「明治2年小樽港に抵る者百戸」

「明治4年先つ仮に余市に居らしめ後之を樺太に移さんとす因て漸次此に来往する者、百六十九戸遂に聚落を成す・・・・」


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公文書の記述と実際の入植戸数が違っています

前述では、第1次隊は103戸、第2次隊が108戸であり、血判書では190戸、公文書では169戸です

この戸数の違いは、入植が完了する6か月間に入植に加わらなかった人たちが居たという事のようです

宗川熊四郎茂友の譜代の家来である白藤又作・和気慎太郎などもいなくなっているようです

明治4年には第3次隊が来ました

それまで、何らかの事情で移住が遅れていて、芝の増上寺山内の搭中に分散宿泊していた人たちです

取締役は三宅安蔵氏で、戸主はすでに渡道している家族は33世帯の98人、戸主及び家族ともは13戸55人の153人


■屈辱の日々

血判書まで提出し、決意を持って入植した旧会津藩士ですが

当時の余市には、すでに先住の人たちが住み、経済力のある漁業家や商家や寺社もありました

葬儀を出す際に、会津は逆賊扱いされ断られ、会津藩士は改宗して神徒になったそうです

隊長の宗川家も会津時代には浄土宗でしたが、この件以降は、ずっと神徒だそうです

鰊漁に出面稼ぎに出かけるような事も武士にとっては、屈辱でした

さらに、3年間の扶助がうち切られる前に、自己生産を持って生きていかなければならないという事情もありました


北海道の先住民であるアイヌ民族には、農耕文化がありません

そのまま残っている原生林を開墾するための道具は、開拓使から提供されたとは言え簡単には進みませんでした

いよいよ扶助が切れるという明治6年、開拓使はノルマ(1町1反)を与え、達成者には奨励金を与えました

奨励金のおかげか、開墾の成績が格段に上がったようです


明治7(1874)年の10月から

農業現術生徒の福本政寛氏と藤吉五郎氏が助手を伴って西洋耕作機械で新しい農法と機械の取り扱いを教授しました

アメリカ近代農業技術を学び普及は、開拓使によるデモンストレーションでもありました

教えを受けたのは、長崎尚志らの10名との記述があります

馬を使い20日間で約5町歩の畑を耕起し、これからの開拓に馬耕が必要だと深く感銘を受けたようです

中でも、副戸長の在竹四郎太は、開拓使に札幌官園での実習を申し入れました


1棟5戸を5家と言い、伍長を置き、5家を5~6組まとめて1村長を置きました

以下は、各村長です

川の東には

1番村---杉本弥三郎、2番村---佐藤駒之進、3番村---武藤格弥、4番村---在竹四郎太

川の西には

上村---一柳平太郎、下村---落合恒三郎

入植後に、川東村は「黒川村」、川西村は「山田村」となりました

命名には、黒川村は、開拓使の「黒田清隆」氏と総取締の「宗川茂友」氏から1文字づつ

山田村は、「黒田清隆」氏と樺太開拓使監事の「大山壮太郎」氏から1文字づつ合わせたそうです

また、一説によれば、会津若松の古名が「黒川荘」で川の名前にも「黒川」がある事からとも言われています

山田の「田」は、開拓使余市出張所の「吉田大主典」の田をとったともあります


明治7年には、黒川村山田村が使われています

余市町史より、明治7年の黒川村山田村の蒔き付け面積

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明治33年の記録の、土地3町歩以上の所有者名簿に82人の名前があります

その名簿の中に、何と19名の旧会津藩士の入植者の名前が載っているそうです

19人の平均面積は、約5.1町歩で、会津藩士以外は、漁場経営者だけでほぼ不在地主です

会津藩士の能力の高さに、驚きますね



そして、旧会津藩士が、日本で初めてのりんご栽培への道にと続きます




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