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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その6


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■日本で初めてのりんごが実る

開拓使からりんごの苗を配布された旧会津藩士が、ついにりんごの実を結実させます


余市りんごの初収穫の様子を、川端義平氏がこう表現しています

***「川端義平」さんは余市在住の作家の「朝谷耿三」氏、著書に「余市物語」などがあります***

「つるべ落としに北国の秋が去ろうとする頃、赤羽源八の「緋衣」が6つばかり、金子安蔵の「国光」が7つほど、乙女が恥じらうように葉の間から色づいた姿を見せた。

人々は、これが役人の言った滋味にして栄養豊富な珍果りんごと言うものかと木の元に集まった。

赤羽源八は成功の感謝と神々への感謝で、もぎとる手が震えた。ずっしりとした手ごろな重みと感触は永年政府に持っていた不満も拭い去る高貴さを感じた・・・」


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りんごを実らせたのは、偶然では無く、国光を実らせた「金子安蔵」は、開拓使の農業現術生として修業した成果であったとも考えられます

明治9年札幌農学校(現北海道大学)が開校する以前の明治7年の8月14日の記述に

金子安蔵氏は、4等現術生徒(6円)という辞令を出されています

現術生として、果樹栽培を学んだ金子氏が、配布されたりんごの苗を大切に育てた成果だったようです


■りんご栽培に関しての功労者

余市会津藩士団からの現術生の記録

明治7年 中田常太郎(1等生徒)東 轟(4等生徒)
明治8年 東 蔵太(4等生徒)川俣友次郎(4等生徒)
明治9年 木村猪和雄 横山留三 

金子安蔵さんは、明治12年に1等生徒となっていますし、明治17年には勧業課農務係判任官の辞令で月棒10円の記録があります

川俣友次郎さんは、りんご栽培に尽力され、その後町議となり産業功労者となっています

東 蔵太さんは、一時期は開拓使に勤めていますが余市に戻って、りんご栽培の功労者となっています

余市会津人の3元老の一人「三宅権八郎」氏は、果樹・畑作のために余市町農会の創設に奔走し、農会長となった功労者

小栗富蔵氏は、りんご栽培の傍ら、余市りんご購買販売組合(後のりんご同業組合)を設立しました

その組合長を引き継いだ、水野音吉さんは、明治39年にはロシアにも輸出する道筋を作った人物

余市農業の発達史には、病害虫防除の功績として、伊藤甚六、百瀬清三郎、石山亀次郎、黒河内辰巳、さんたちの名前が残されています


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(小樽・後志の歴史:郷土出版社)より

記述者の菅原一也さんは、余市文芸42号(2017年3月)の中で「会津藩士の墓場山」「日進館」などについて詳細に書かれています

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余市農業発達史によると

明治12年、余市山田村の金子安蔵の畑で49号(国光)と呼ばれるリンゴが複数の実を結んだとあります

同じく赤羽源八の畑でも19号(緋の衣)が結実したとされていて、これが「余市リンゴのはじまり」です

このリンゴを結実させた苗木は、明治8年に開拓使から贈られた物です

当時開拓使では、明治5年3月、アメリカからリンゴ、梨、桃、プラム等の苗木を輸入すると伴に、その栽培の指導者としてルイス・ベーマーを雇い入れています

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ドイツ人の庭師とも言われていますが、北海道の気候がドイツに近かったのも影響があったのでしょうか

昨年に書いた「りんごの歩んだ道」でも書いたと思うのですが
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-996.html

東京の官園でルイス・ベーマーが教えた簡便で確実なリンゴの接ぎ木法が、開拓使だけではなく各地に行き届いたからでしょう

明治5年、ベーマーが指導する東京青山の官園に、余市から中田常太郎という元会津藩士が「農業成育方」として派遣されています

ベーマーは、明治7年、植物の生育分布調査で半年ほど北海道を廻る中で、7月26日に10名余の従者と伴に回路古平を経て余市の地を踏んでいます

明治3年浜中町に明治政府の開拓使出張所が設けられていたこともあり、開拓使の用命で東京から出向いてきたルイス・ベーマー一行は厚い歓待を受けたようです

翌明治8年、ベーマーによって品種名と番号で管理されたリンゴの苗木が北海道各地に配られたわけです

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ベーマー

ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。

(抜粋)

ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。

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前田克己氏の会津藩士物語は、多くの会津藩士にスポットを当てて書いています

その中でも、旧会津藩士を余市に移住させた功労者の隊長「宗川茂友」氏について多くのページを使っています

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「宗川茂友」とGoogleでググってみても、ヒットするのは、蝦夷地へ移住した旧会津藩士の隊長としての活躍が主です

また、余市に移住後、明治11年か12年に帰郷しています

元々、余市移住の藩士団は京都守護職以来、幕末の戦火をくぐって来た歴戦の強者でした

渡道は応募という事だったのですが

「家老の萱野権兵衛の一味枝幹という名目で蝦夷地へ流罪」と考える者もいますし

「主君の松平容保公ならびに一藩に代わっての渡道」「旧藩渡道のさきがけとして」と思う人もいます

ですから、旧藩士には賊軍という意識は無かったと思われます

しかし、現実としては、渡道後の一か月後には、会津藩は謹慎を解かれ、斗南藩へ移封となるわけです

何のための渡道だったのか、移住組の藩士の多くはそう思ったでしょう

また、兵部省と開拓使の対立にも巻き込まれ、多くの矛盾や問題点を抱えたまま、未開地で不自由な集団生活ですから

多くの不満で暴動を起こしても不思議では無いような状況下に置かれたのです


この状況の藩士団をまとめ、交渉し、移住藩士の生活の全てを指揮し、移住を成功させたのが「宗川茂友」氏だったのです

自らも、未開地を開墾しながら、指揮をとり、まとめ役となった隊長の宗川茂友さんとは、どのような人物だったのでしょう



その7に続きます



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吉田観光農園でとれた「緋の衣」

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駅前の山田商店さんの木箱用の貼り紙(山田商店さんは2017年2月で閉店しました)

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「国光」の画像が無くて、Wikiから借りて来ました

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%89_(%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4)

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