戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その7

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1000.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1001.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1002.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その4
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1003.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その5
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1004.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その6
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1005.html



前回のルイス・ベーマーについての追記です

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ベーマー

べーマーの偉業をたたえ、べーマー会があります

「べーマー会」Boehmer Club
http://luisboehmer.com/

べーマー会では、余市のシリパ岬を望む山本観光農園に記念碑を建てています

「透明りんご」をイメージした記念碑です

20180312-01-sub01.jpg

その新聞記事
20180312-01-DSC_1923.jpg


山本観光農園
http://www.fruits-yamamoto.net/


---------------------------------------------------------------------------



■隊長「宗川熊四郎茂友」

20180306-20-DSC_2139.jpg


「宗川茂友」氏が、会津藩の北海道移住で隊長を任された経緯は良くわかっていません

蝦夷地行きの志願者の中から選ばれたのか、藩の命令によるものだったのでしょうか

茂友の父は、茂弘と言い、鶴ヶ城籠城の時に入城し、開城後にはしばらく米塚村に居たそうです

この時、茂弘氏は60歳を超えていたため、60歳以上は会津の在所で100日間の謹慎だけで、収容所へは行かなかったのです

10月初めには息子の茂友の妻子と一緒に河沼郡笈川村鴻巣又吉方に預けられています

茂弘・茂友親子が、蝦夷地へ出発する際に、藩主の容保公は短冊に一首を与えています


蝦夷地にゆくと聞いて

我はまだ蝦夷氏知らねども蝦夷が嶋

寒しと聞けば心して住め
     
        容 保


茂友の任務は藩公と一藩に代わって隊士を引き具し、未知未開の蝦夷地に渡り、新政府兵部省の指揮に従う事でした

元とは言え、26万石の殿様から格別の餞の言葉を戴いた宗川親子は、感激し蝦夷地に骨を埋める覚悟だったでしょう


「宗川茂友」は、熊四郎茂友ですけど、勇之進茂弘の3男として天保元年12月5日に会津若松城下に生まれます

2人の兄は天折したため、茂友が家督を継ぐ事になったのです

   嘉永6年10月、江戸表江罷登発之御目申上候

茂友は、23歳と10か月で初御目見となります

この頃は、日新館で武術の鍛錬に励み、宝蔵院流槍術を師範安藤市蔵に学び、名手となっています

お目見えの翌年には、御備組付となり、安政6年には武芸が認められて御供番に加えられ、藩主容保公の身辺護衛役として終始します

京都守護職時代も、会津戦争に籠城するまで護衛役をしています

「お殿様の御護衛役として、常に影の如くお仕えして来ました」(宗川ミヨさん談)


祖父の茂京、父の茂弘は、共に藩主の侍講で、叔父の茂は勝れた学者でした

家系的には、武道では無さそうですが、茂友は槍一筋の武人となったのです

慶応4年以降は、護衛や軍事方、歩兵隊などを経験し、9月に砲兵仮番頭となっています

鶴が城籠城の時は、砲兵2番隊隊長だったようです

これ以降の、茂友氏に関する履歴は残されていません


北海道移住以降の履歴が残っていないのです

渡道以降の記録は、他の文書や文献からの推測となっています

小樽上陸の頃の記録としては、「オタルナイ騒動」があります

20180312-11DSC_2082.jpg



明治2年9月、渡道した茂友一家の構成(内は年齢)

父-「勇之進茂弘」(72)
妻-「須美」(34)
長女-「登良(とら)」(13)
次女-「未津(まつ)」(11)
次男-「虎次」(8)
*長男の虎松は戊辰戦争で戦死しています

譜代の家来
白藤又作(27)
和気慎太郎(23)和気長吉(21)


余市移住前に譜代の家来は自由となり、和気長吉のみが独立して開拓の1員になっています

また、長女の登良は杉本弥三郎氏のところへ嫁いでいます

---------------------------------------------------------------

小樽に上陸してから、余市への移住までの1年半

この「宗川茂友」という隊長が居なければ、乗り越える事は出来なかったと思います

黒田清隆氏への陳情の成果で、藩士の去就の制限は余市に入植しなくても良かったわけです

茂友氏の隊長としての任務も、この時点で終わっていたものと思われます

しかし、多くの藩士とともに余市に移住し移住後は、総取締となります

開拓使は、茂友に明治4年に「開拓使権少主典」に任命、以後次の辞令が残っています

明治5年8月25日任少主典
明治6年4月29日移民取締差免更余市詰申付候事
    7月2日河西河東両村取締専務申付候事
明治7年1月17日余市郡移民開墾勉励産業の道相立兼て勧誘行届候段奇特に付御賞として金7円5拾銭被下候
    7月17日依願免本官
       山田黒川両村戸長申付候事
       一金3拾7円5拾銭月給1か月半分 右は満3か年勤続に付被下候事
明治8年10月14日依願余市郡黒川山田村戸長差免候事

開拓使側は、宗川茂友氏を役人として用いようとしていますが、本人は辞退の念が強いように見えます

明治7年には、開拓使権少主典を辞任願を出していますが、その理由として

「自分も開拓者の一人である。しかるに官途にあっては他の人に悪い・・・」と書いています

それを受けて、開拓使はその日に戸長に任命しています

金銭的には、少主典は25円で、戸長は10円ですから、金銭では無かったのでしょう

茂友は、戸長も明治8年10月に辞任していますから、たったの1年で辞任しています


当時の茂友一家の居住地は、現在の開村記念碑付近となっていますから

本間商店としても、大きな縁を感じてしまいます

20180312-12-NEC_0914s.jpg


■資料:余市町指定文化財「開村記念碑」
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-919.html

20180312-20-kinenhi01.jpg
20180312-21-kinenhi02.jpg
20180312-22-kinenhi03.jpg
20180312-23-kinenhi04.jpg
20180312-24-kinenhi05.jpg
20180312-25-kinenhi06.jpg
20180312-26-kinenhi07.jpg



茂友の父の茂弘は、寛政9年9月6日に安衛門茂京の長男として生まれ、容敬公、容保公と2公に侍講として仕えました

忠誠心が強く、72歳で茂友一家と共に蝦夷地へ渡る決心をしたのも藩公の謹慎が解かれる事を願う一心からでした

茂弘は博識で、一時札幌の資生館の教師として招かれましたが、余市に日新館が開かれた事から「開拓使御用係」となり藩士子弟の教育に携わりました

茂弘は、明治11年会津へ帰り明治15年85歳で没しています


父と同じで、熊四郎茂友も君主のために生きた忠誠者でした

容保公がお手元不如意と伝え聞き、自分が得た給与の中から、時折お見舞いとしてお金を送っています

容保公は、茂友の篤い心に対して次のように贈っています


こころざしのあつかりきをよろこびて

蝦夷といへばはるけきものを

遠しともなさでこころはこぶ嬉しさ

            容 保


この短冊は、宗川家の家宝として保管されているそうです



長くなりましたので、次回へ続きます

次は、宗川茂友一家の事情と帰国、白虎隊、士族への復帰などを中心にまとめます

スポンサーサイト

管理者にだけ表示を許可する