スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Comment (-)

歴史ガイド 02

1999年に発売された本が手元にあるんです
鰊 失われた群来の記録」高橋明雄/著(北海道新聞社)
この本にはとても貴重な写真がたくさん載っていて
近世から20世紀半ばまで北海道経済を支えて来た鰊漁のあらましを回想
重要文化財「旧佐賀家漁場・漁労用具」など写真380点が収録されています

まず鰊は江差追分で有名な江差から始まりました
江差が江戸にも無いと言われた隆盛を極めたのが大正2年
その後ニシンは北進し、島牧、歌棄、磯谷と積丹半島を回って余市や小樽に向かい
その後、高島、忍路(現小樽市)、石狩まで達し、沿岸の地域を興し続けたのです
豊漁で有名な時代には多くの文人も訪れ、特に岩内などは漁猟取材文学なども興りました
石狩晩歌もそんな文化の流れですね

余市場所と呼ばれ、通いで漁が始まったのは安永2(1773)年の頃です
移住が許され、人々が住みはじめたのは1856年
北回り船によって旧会津藩が最初に入り農業が始まりました
道路が出来、寺子屋が出来
1856年に、それまでは船でしか行き来が出来なかったので、女人禁制の岬にも歩いて行けるようになると急に人口も増えて行きました
個人の方が編集した冊子ですが「余市駅及び付近の変遷」(計良幸太郎氏/平成5年)によると
大正7年の「各駅お客番付」では余市は関脇で233157人で10傑入りしてますね
また同年「人口番付」では小結、18863人だそうです
余市のニシンの最盛期は1920(大正9)年と記録されています

先住民族の漁場ユナイのコタン(現余市町豊浜)に和人が18世紀末に漁場を開く
アイヌ達も漁はしていたが、和人のもたらす生活必需品に魅せられ、使役に回って行く
その頃はタモだけでも十分な漁があったようです
文政3年初代竹屋林長左エ門が漁場を請け負うと道南から人が定着し始めた
これを許可し場所ごとに作られたのが「運上家」でした
現存するのは、余市の浜中にある1軒だけです(復元です)
運上家は、公文書の取り扱い、宿、難破船の救援など松前藩の出先機関としても機能していました蝦夷地を経営するのは、非常に大変だったようです
運上家に「遠山金四郎」が赴任していたのも史実に残っているらしいです

ニシン漁場は魚網の改良などを重ね各地で漁家が経済力をつけ、今も残るニシン御殿を築き、繁栄しました
スポンサーサイト

管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。