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「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

つづきです


北海道開拓使は、明治5(1872)年と6年に、75種類のりんごの苗を輸入しました

当時のアメリカでは、1099種類もの品種が栽培されていましたが、その中から75種類が選ばれたのです

開拓使の「黒田清隆」次官は、前年の、明治4年にアメリカに渡り、アメリカ側の農務局長の「ホーレス・ケプロン」を開拓使の最高顧問として迎えています

その後、来日したケプロンは、4年間滞日して居ます。

1871年、次男の「アルバート・A・ケプロン」(日米両国政府公認の日本国購買代理人)にリンゴや梨の苗の注文書を発注します。

この時、開拓使がニューヨークの種苗商会に支払った、苗木や台木の代金は、「2,746ドル」
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明治5年3月に、サンフランシスコから、りんご、梨、桃、プラムなどの苗木が到着したが、荷造りが悪く、苗の状態は良くなかったという

その本数は、合計4900本(りんごは、1400本)で、「ルイス・べーマー」が選定し、品種名と番号、それぞれの特徴を記録したリストがついていたそうだ

このリストは、後に「果樹種類簿」となって、その品種名が混乱なく今日に伝わっている


苗の到着と同じころ、開拓使が雇用した農業教師の「ルイス・べーマー」も来日している

開拓使東京第一官園では、明治5年の4月に、第一農園での栽培が開始されている

ルイス・べーマーの初仕事は「接ぎ木」の作業と、ケプロン日誌には記されている

この日のために、日本全国から植木職人や庭師が集められて、初めての西洋式の接ぎ木を伝授されたのです

その後、これらの職人も多くが開拓使と内務省に雇用され、全国に西洋式接ぎ木を広めていった


開拓使とは別に、農業政策は、大蔵省観農寮でも始まっていて、巣鴨の御用地が狭くなり、現在の新宿御苑に栽培地を移しています

この栽培用の苗の出所が、長く不明でしたが、最近になって、開拓使に便乗してアメリカから輸入していたと分かりました

また、明治6(1873)年に、ウィーンで開催された万国博覧会へ出かけた政府関係者が、帰国の際にフランスから大量の苗を持ち帰っていました


明治7年になると、農業対策は、内務省に移され、当時の内務省の「大久保利通」は、翌年から積極的に全国の府県宛に苗木を配布している

明治9年には、2年後に開催予定のパリ万博の準備で派遣された、外務省の2党書記生「前田正名(まさな)」氏が、各国の殖産興業を調査

明治10年に帰国した、前田正名氏は、三田育種場を開設し、樹芸振興を目指す

樹芸とは、ワイン、ジュース、ジャムなどの加工を含む果樹栽培であり、物産を栄えさせる事で、従来の農業を改良する考えのようです

三田育種場は、苗を全国に配布・指導するだけでなく、個人向けに販売もしている

販売カタログ「舶来果樹要覧」には、りんごの品種は108(フランス品種74、アメリカ品種24、その他10)とあり、フランスからの輸入が多い

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明治初期、開拓使は、廃藩置県で北海道に移住した藩士たちに、開墾を進めていました

開拓使は、移住者の農業経営に西洋の技術を導入するために、西洋農学現術生徒を指導する農業教師を招きます

果樹園芸の担当の「ルイス・べーマー」氏と、牧畜担当の「エドウィン・ダン」氏です

生徒には、明治15年まで無償で苗を配布して、栽培を指導しました

そして、りんごの実が結実します


その3へつづく

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)



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明治2年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まり、同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士が余市に入植します

その後、安蔵宅の同49号「国光」が日本で始めてのリンゴとして余市に結実、赤羽宅の19号は「緋之衣(ひのころも、ひごろも)」と命名されています

両方とも、べーマーの教え子でした


民間に配布された物で記録にある結実は、明治12(1879)年、余市でリンゴ初結実、緋之衣(19号、Kingof Tompkins County)及び国光(49号、Ralls Janet)となっています

官製りんごとしては、明治9年には東京の青山試験場で、10年には、札幌官園と七飯試験場で、結実しているようです


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緋之衣(ひのころも、ひごろも)

余市のりんごの歴史については、別の機会に。

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