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「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

つづきです

開拓使が、農家に配布したりんごの結実は、明治11~13年に各地で見られるようになり

従来の和リンゴとの違いを実感し、その後のりんご栽培に続いて行きます

開拓使の札幌本庁構内果樹園では、明治14(1881)年には、りんご泥棒に手を焼いている記述まで登場しています

この頃の開拓使は、八百屋に「1斤4銭」で払い下げていました(1斤はだいたい450g)

当時の、辻そばが「1銭5厘」牛鍋が「5銭」ですから、りんごは高価な食べ物だったのです


一方、東京で栽培されていたりんごは、気候が温暖なために成長が早く日持ちの悪い品が多かった

また、アメリカからの輸入品も冷蔵設備の無い船で1か月(収穫地からは2か月)もかかる事から、鮮度が悪かったため

輸入品は生よりも、瓶詰や缶詰、ジャム、乾燥りんごなどの加工品にシフトして行きました

東京では、鮮度の良いりんごの需要が高くなっていたのです


開拓使は、明治14年の秋から、東京への出荷を始めています

日本橋の箱崎町に開拓使の物産取扱所があり、そこでの販売を始めます

ここでは、すでに、ビール、バター、チーズ、缶詰などを販売していました

(今でいう「アンテナショップ」でしょうか)


開拓農家は、りんごが東京に出荷され、高値で売れる事で、栽培にも力が入ったことでしょう

札幌の記録では、山鼻村の「水原寅蔵」氏は、西洋りんご樹700本を栽培して、明治15年には林檎の収入が「600円余」とあります
(函館新聞 明治16年11月28日付)

明治15年16年は、北海道で大干ばつが起こった年だったのですが、りんご栽培は上手く出来ていたわけです

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河野常吉」氏の談話集では

明治8年に開拓使から西洋りんご、梨の苗を1560本配布された、余市郡黒川、山田村の事が書かれています

「このとき(明治8年)、私は現業実習のため月給5円で手伝いをしていたので、各戸に10本づつ植えさせた。

その後、明治10年にもりんごの樹を分与されたので、各戸10本づつ植えさせた。

明治15、16年頃より、りんごが結実し小樽から商人が買い付けに来て高値で売れた。

私は、18年に官を辞し、官よりりんご樹苗を100本くらいもらい、19年に村に帰って植え付けた

この頃から村人は、こぞって栽培するようになった」


北海道では、有珠郡にも苗は配られ植えられました

明治15~16年には、りんごの出荷高は、2000円にのぼり、明治20年には、汽船の航路が開きます

函館、岩内、寿都、歌棄などから、出荷された金額が、5000円~6000円にも上ったそうです


余市では「会津藩士」、有珠では「仙台藩士」が、それぞれ移住して開拓した場所です

旧藩士の新天地にかけた努力が、りんごによって実ったのでしょう


日本人にとって、果樹はお金になるという認識は、実は、このりんご栽培が初めての経験だったのです

これまでは、果樹栽培は遊びであり、子供の食べ物扱いだったのです

果物栽培によって利益をあげて、果物栽培で経済を立てるというのは、りんご栽培が始まりだったのですね

そして、北海道に最適な、果樹であるりんごを選んだのが、もう奇跡みたいなものです

新しい農業(産業)は、これまでの経験やしがらみの無い北海道から始まったわけです


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そして、このりんご栽培は「東北地方」の失業武士の対策としても使われる事になります


明治4(1871)年、明治維新政府は、廃藩置県を断行します

江戸時代の藩は消滅し、新政府直轄の県へと変化しました

これによって、全国で300以上の藩が消滅したのです

弘前藩、奥羽藩も無くなり、3万4千人が失業しました

弘前藩は、田畑を買い取り、家禄15俵以上の武士に分け与えています、これが「帰田法」でした

(1俵で1人養えると言う感覚でしょうか)

農業に立ち戻って、農業で身をたてなさい」という感じです

明治政府も、東北地方の開墾をして就農させる対策をとっていたようです

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北海道では、会津藩士、仙台藩士が栽培したように

東北では、弘前藩士が、りんごの栽培を始め「りんご士族」となって、青森りんごの基礎を作っていきました

旧弘前藩士の、りんごに関しての活躍は大きく、研究にも熱心でした


「青森りんごの祖」と言われているのは「菊池楯衛」氏です

DSC_1468.jpg


アメリカ人の農業教師「ルイス・べーマー」に接ぎ木を習いました

元々、県庁の職員でしたが、樹芸の道に進みます。退職後に北海道の七重勧業試験場に入りびたり、現術生徒から指導を受けます

北海道から帰郷する時には、りんご苗、西洋わさび、キャベツの種、馬鈴薯、アスパラガスなどを持ち帰っています

その後、「化育社」を創立し、りんご栽培の邁進しました

接ぎ木、実生(種から育てる)、台木の育成、台木に自生サンナシなどを使う方法などで、苗木の技術を確立していきます

「化育社」は、その後「津軽果樹研究会」となり、「津軽産業会」へとなって行きます


東奥義塾を創設した「菊池九郎」塾長の「本田庸一」氏は、東奥義塾直営のりんご園を作っています

また、「林檎図鑑」を翻訳出版した「佐藤弥六」(サトウハチロー氏の祖父)

「紅絞(べにしぼり)」(中畑中手)を手がけた「中畑清八郎」氏

「萃果要覧」を作った「楠見冬次郎」「佐野煕(ひろむ)」氏など

DSC_1469.jpg


こういう人たちを「りんご士族」と呼び、青森りんごは、人材にも恵まれて、基礎がためが出来て行きました

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北海道よりも青森でりんご栽培が成功したのは、交通の利点があったからだと思います

青森りんごが量産体制となった、明治24年「青森~上野」間に鉄道が開通したのです

青森りんご VS 北海道りんご 

研究熱心で、流通の速さで、青森りんごの圧勝となったわけです


その4につづく

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)




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なんかなんかなぁ。。。

余市の歴史本、NO.4には、会津藩士のりんご作りの記載があります

DSC_1439.jpg


北海道は、広すぎるのと、りんご栽培に適した場所が限られていた事、輸送の利便などなどの点

今は、北海道でリンゴ栽培をしている事そのものが、忘れられてる感じなんですね

それでも、日々精進している生産者さんもいます

青森県のような公的な支援の無い中、本当に感謝の念に耐えません。。。



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