カテゴリ:果族便り の記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Comment (-)

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2


戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1000.html

■小樽内へ上陸

旧歴明治2年9月21日、東京の品川を出港したアメリカ籍の蒸気船コユール号が目的地のオタルナイに入港した。

その船の乗客は、兵部省の井上弥吉に引率された北海道移住旧会津藩士の第1次隊の103戸332人でした。

旧歴の9月21日と言えば、新暦では11月4日、北海道は晩秋というより初冬

日本海は荒れしけ続きで食事も喉を通らなぬ者も多く信香浜に着いて蘇生した思いだったと、移住2世の川俣兵司氏が「炉辺夜話」に書いている


「オタルナイ」とは、今の「小樽市」

当時は、勝納川の河口を中心に海に平行して信香(のぶか)・勝納(かつない)が開けた所で寂しい漁村でした。

宿泊所となったのは、漁期外の鰊番屋や遊女宿、遠い蝦夷地への移民の悲哀と憤りもあったという。

第2次隊は9月30日、大阪丸で到着。資料が残っていないため108戸と推測されています。



【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編①廃橋編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=i9n1kGq-3vk

文献上最初の和人入植地とされる、「オタルナイ」石狩湾新港建設等の影響で1970年台に廃村になったが、今でもその痕跡が残る。
「おたる」の地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」に由来する。しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではない。

【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編②集落跡編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=mR4SSE5uZmo

文献上最初の和人入植地であるオタルナイは、原名をタルナイといい、今の小樽市や石狩市樽川のベースになった集落です。漁業不適地ということで、漁場を求めて人が散っていき、石狩湾新港開発に伴い1970年代に廃村になったそうです。
今でも集落の十字路、メインストリートは残っていますが・・・
厳しい自然環境で、漁業にも農業にも適さない河口砂地で、交通の便も悪く、舟運をやるには川が小さく、人間が住む理由が見つからないような土地です。




■蝦夷地移住のいきさつ

慶応4年(1868年/明治元年)、会津藩の鶴ヶ城は落城し西軍が勝利、城内にいた藩士たちを、会津藩士卆として猪苗代に収容し謹慎させました

この年の暮れには東京送りとなり、西軍諸藩監視の元で引き続き謹慎の身となった

戊辰戦争の敗者といえ、会津藩士は屈強で、新政府にとっても厄介な存在だったのです

最初に信州の松代藩に移住予定でしたが、途中で松代藩から「人数的に無理」との陳情で東京に送られたのです

城の外に居た藩士たちは、越後高田藩送りとなり寺院などに分散収容されました

明治新政府は、多くの仕事が山積み状態であり、その一つに蝦夷地開拓がありました

兵部省が政府に対して出された「会津降伏人始末荒目途」の記述には、こうありました

「総人数を1万7千人とみて、そのうち1万2千人を蝦夷地へ移し、5千人を内地3万石の地へ移す。

蝦夷地にへは、巳年(明治2年)4千人、午年に8千人。移住者には家作・農具代として48万両、米7万石を支給して欲しい」

政府は、最初から旧会津藩士を蝦夷地へ送り込み、北海道開拓をさせる算段があったのだろうと思われます

若林功七の「北海道開拓秘話」では

「降伏人には国民として一視同仁から特別の寛典と便宜を与え兵部省管理として、一部を北海道の発寒・石狩・小樽に移し開拓に従事させる事にした」と書かれています

柴五郎氏によると

「自由を束縛され屈辱に日々を送るよりも、新天地での生活が出来て、旧主の罪が許されるならと、200戸近くが応じた」とあります

しかし、それは、初めから普通の移民では無かったのです


20180213-01-img_0.jpg
落城後の鶴ヶ城~銃撃の後が残っている

20180213-02-image.jpg
会津若松観光ナビのHPから

若松城 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/若松城

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。 地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。



その3へ続きます



戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1

2018年になって、初めての更新です

余りにもマイペースで本当に申し訳なく思います

昨日は建国記念日の日で、お稲荷さんの日でしたが、余市神社も稲荷系と言う事で

20180212-DSC_2018.jpg


昨夜は、いなり寿司を食べましたよ

20180212-DSC_2054.jpg



今年は「戊辰150周年」と言う事ですよ

20180212-Logo_SCA.jpg


明治元年は1868年、戊辰戦争から150年という節目の年なのですね

会津若松市では、イベントも目白押しのようです

会津若松市戊辰150周年記念事業
http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/


20180212-DSC_2037.jpg20180212-DSC_2038.jpg




会津藩士と余市町の関わりについてのおさらいです

まず、余市町の年表を見てみましょう

余市町のHPより
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/syoukai/history.html

余市町のあゆみ(余市年表)

年(西暦)

できごと


慶長4年(1599年) 松前慶広(伊豆守)、松前左膳に余市川右岸を与え上ヨイチ余市場所とし、左岸を松前八兵衛に与え下ヨイチ場所とする。
元禄元年(1688年) 松前藩、神威岬(かむいみさき)以北への婦女子の通行を禁止する。
文化3年(1806年) 幕府目付役遠山金四郎景普ら西蝦夷地(にしえぞち)を巡回。
文政3年(1820年) 初代林長左衛門ヨイチ場所を請負い、各地に漁場を拓く。
安政3年(1856年) 神威岬以北への婦女子の通行禁止を解く。これによりヨイチに定住する者増加する。
安政4年(1857年) 余市・小樽間の道路開通する。
明治2年(1869年) 開拓使余市詰役員派遣(浜中出張所)。余市定着77軒
明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。

明治16年(1883年) 余市・蘭島間にトンネル開通。
明治18年(1885年) 幸田成行(後の露伴)、余市電信局に赴任。
明治33年(1900年) 7月1日、郡内11町村を合併して余市町となる。
明治35年(1902年) 北海道鉄道株式会社により鉄道敷設。余市駅開設。
明治40年(1907年) 余市、小樽間に電話開通。
明治42年(1909年) 阿部勘五郎、黒川村に余市酒造(株)創設。銘酒「十一州」発売。
大正4年(1915年) 小樽電灯株式会社の工事により町内に電灯点灯(3,000余戸)。
大正9年(1920年) 第1回国勢調査。人口16,809人。
大正10年(1921年) 山田村にアユ人工孵化場建設。
大正14年(1925年) 大江村下山道地区を余市町に併合。
昭和4年(1929年) 北海道水産試験場完成。
昭和9年(1934年) 大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)創設。
昭和25年(1950年) フゴッペ洞窟発見される(昭和28年国指定文化財に)。
昭和29年(1954年) この年を最後として以後ニシンの回遊が途絶える。
昭和33年(1958年) 余市町立天然水族館完成。上水道が竣工し、市街地に給水。
昭和36年(1961年) 第10回全国高校スキー大会で余市高校優勝。
昭和37年(1962年) 前年に続き大水害発生。大川橋流失。
昭和40年(1965年) 北星学園余市高等学校開校。
昭和44年(1969年) 運動公園野球場完成。余市水産博物館開館。第1回北海ソーラン祭り開催。
昭和46年(1971年) 役場新庁舎(現在の庁舎)完成。
昭和47年(1972年) 笠谷幸生選手、冬季オリンピック札幌大会70メートル級ジャンプで金メダル獲得。
昭和54年(1979年) 中央公民館、陸上競技場、歴史民俗資料館完成。
昭和57年(1982年) 総合体育館オープン。
昭和63年(1988年) 英国ストラスケルビン市(現イーストダンバートンシャイア市)と姉妹都市提携。
平成3年(1991年) 北海道余市養護学校開校。余市図書館開館。
平成4年(1992年) 毛利衛氏、スペースシャトルに搭乗して宇宙実験。
平成7年(1995年) 旧余市福原漁場(国指定史跡)一般公開。
平成10年(1998年) 斉藤、船木選手、冬季オリンピック長野大会、ジャンプで金メダル獲得。宇宙記念館オープン。
平成17年(2005年) 第18回国勢調査。世帯数9,310世帯・人口22,734人
平成18年(2006年) あゆ場公園パークゴルフ場完成。
平成21年(2009年) 余市川浄水場(山田町)供用開始。
平成23年(2011年) 「北のフルーツ王国 よいちワイン特区」」に認定される。
平成26年(2014年) 名誉町民の竹鶴政孝氏とリタ夫人をモデルとしたNHK連続小説「マッサン」が全国放送される。(放送期間:平成26年9月29日~平成27年3月28日、全150回)
平成27年(2015年) 奈良県五條市と交流都市提携の締結。
平成27年(2015年) 福島県会津若松市と親善交流都市の締結。



この部分が、会津藩士が余市にに入植して、日本で最初にりんごを結実させた歴史です


明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。


会津藩士と余市町の深い繋がりについて

前田克己氏が書いた豆本~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11

20180212-DSC_2048.jpg
20180212-DSC_2047.jpg


これを紹介しながら、振り返って行きたいと思います

この本は、平成2年に出された物で、表紙の殉職碑はこれですね

20180212-DSC_2044.jpg




豆本ですから、手のひらサイズの小さな本です

本編は、次回になります


2017年の終わりに、感謝を込めて!


丁酉の1年が、あっと言う間に過ぎてしまいました。

更新が少ないのを反省しながら、本年も終える事になり、大変申し訳ありません。

来年こそは、きちんと更新するように心がけたいと思っています。


本年も、たくさんの方々に出会い、教えられ、助けられ、何とか乗り越えてこられました

本当にありがたく、感謝感謝です。

来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

来年は、1月5日より、営業させて戴きます。

20171231-01-DSC_2005.jpg


それでは、皆さま、良い年をお迎え下さい!

20171231-04-DSC_2010.jpg




PS

ただいま、掃除とお正月の食のために、時間が足りないとボヤきながらも頑張っています。

20171231-02-DSC_2013.jpg


20171231-03-DSC_2012.jpg








2017年の反省会も、まとめられたら書きたいと思っています。。。


【冬支度】感謝!本年度の売店の営業は無事に終了いたしました。


2017年の秋も忙しく慌ただしく、気が付けばもう冬が目前となりました。

6月下旬から営業していました露店ですが、気温の低下と共に営業が終了となりました。

たくさんの皆さんのご来店に心から感謝いたします。


冬用の野菜は、もう少し本店の方で販売いたしますので、ご利用下さい。

20171107-01-DSC_1960.jpg



北海道の冬の漬物と言えば、こんな感じです

「大根の玄米漬け」と「聖護院大根の粕味噌漬け」

そして「札幌大球のニシン漬け」が定番です

最近は、「白菜の粕漬け」も人気があります


20171107-02-DSC_1952.jpg



気が付けば、イチョウの葉はすっかり落ちて

20171107-03-DSC_1957.jpg


ラズベリーは、2度目の収穫を迎え

20171107-04-DSC_1932.jpg



まだ細すぎる大根も全部収穫しなければ、凍結の危機が迫って来ました

もう少し、秋を満喫したかったなと思いつつ

冬支度に勤しむ日が続きます

収穫の秋がやって来ました。秋晴れと遅れていた梅干の天日干し、枝豆収穫など


ずいぶん更新していないまま、季節はすっかり秋になりました

からっとした空気と昼間の暑さや夜の気温も、まぎれもなく秋ですね


今年は、春から低温やら雨やら日照不足やらと、作物には試練が続いて来ました

何と言っても、病害虫の多さが気になった夏でした

収穫時期になると、特に野菜の不作傾向を実感します

カボチャも収穫量が半分でしたし、ジャガイモは枝枯れが早く小玉傾向のようです

DSC_1808.jpg


季節的には遅れましたが、やっと梅干の天日干しが出来ました

今年の豊後梅も糖度高く酸味もあって、美味しい出来ですね

DSC_1767.jpg

もっとも食べられるようになるのは、半年以上先ですけど


それと、枝豆の収穫です

品種は「鞍掛(くらかけ)」です

DSC_1792.jpg

パンダ豆とも呼ばれ、実に黒い丸い色が入ります

もう何十年も種を更新し続けている、在来種で、とても美味しい枝豆です

大豆にしても美味しいです

すでに、大根、聖護院大根、白菜などの種まきは完了しています



夏秋イチゴ(かしゅうイチゴ)、四季なりイチゴも収穫のピークですね

色がとても鮮やかで、甘くて酸っぱくて、ソースやジャムにすると美味です

DSC_1804.jpg


ぶどうは、まだハウス物が主流で、露地物は、遅れ気味であまり良く無い印象です


りんごは、色が先行していますが、まだ味は乗っていないですが

早生旭、黄王、シナノレッド、恋空などの収穫が始まっています


その他で気になるのは、アライグマの食害が多くなっている事ですかね


このまま、秋らしい天候が続くと良いなと思います


DSC_1741.jpg

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9


まとめです

りんご(萃果)(林檎)は、3つのルートで日本に入って来ました

①中国→朝鮮→日本 これが「和林檎」です鎌倉中期頃

②ポルトガル→長崎(耶蘇教)→伊達政宗 これはほぼ原産地と同じ原種です

③ヨーロッパ→フランス・アメリカ→日本 これが「萃果」 明治初めで改良種です(フランスでは「pomme」アメリカでは「apple」)

栽培過程で分かったのは

①種子から発芽したりんごは、元のりんごよりも質が落ちる事

②切られた枝から発芽したりんごは、元のりんごと同じ性質を持つ事

③ごくまれに、種子から発芽したりんごの中に、形が大きくなったり、甘くなったりする物がある事

-----------------------------------------------------

日本に適した品種苗を選び、りんご栽培の技術を教えてくれたのは、アメリカ人の農業教師「ルイス・べーマー」氏

0B036310000000000.jpg


りんご栽培は、開拓使が導入し、北海道でまず広がり、果樹栽培がお金を稼ぐ仕事と認定された

りんご栽培は「東北地方」の失業武士の対策としても使われ、各地に広がっていった

鉄道が運行を始めると蒸気機関車が輸送の中心となり、青森県、岩手県が栽培の中心となって行った

青森と岩手が、りんごの産地として名前が大きくなって行ったのは、交通網と官民両方の努力の成果

-------------------------------------------------------

りんご栽培では、病害虫との戦いで努力と工夫をして来たのは青森県で、ボルドー液を粉化する事で効果があった

地域ごとの取り組みによって、りんご栽培には、大きな差が出ていった



苗の導入直後から、各地で、りんごの品種別の特性をつかみ、理想のりんごを交配して試験していた

岩手県盛岡市の農林省園芸試験場東北支場(現:果樹研究所りんご研究所)で、総数13,775本の中から「ふじ」は生まれた

昭和14年に「国光(母)」×「デリシャス(父)」の組み合わせの実生で交配し、昭和22~26年頃に結実、選抜試験を経て、昭和30(1955)年の秋、やっと納得のいく果実が結実


多果汁、甘酸適和、濃厚な味、香り良好、貯蔵良好との評価で「東北7号」となり、その後「農林1号の『ふじ』」として登録されました

交配から23年、多くの研究者の理想となる夢のりんごの誕生しました


多くの品種の中で、日本のりんご栽培技術の結晶の代表品種が「ふじ」だったわけです

すでに、世界22か国でふじは栽培がされていて、ふじは、世界市場で最も成功したりんごと言われています


昭和32(1957)年頃、消費者ニーズが変化し始め、国光と紅玉が中心だった生産に変化が出始めます

DSC_1523.jpg


ここで、次世代りんごをデリシャス系に行くか、国光に代わる品種への模索が始まっていました

選抜試験で良好だった「ロ-628」(国光×デリシャス)が注目される事になりました

この品種に一番に注目し、次世代りんごだと確信した研究者が、農林省園芸試験場東北支場(青森県藤崎町)の支場長の「森英男」氏です

国光を親とする組み合わせ6組、層実生数2241個体、その中で、国光に似ていたのは2個体だけだったそうです

いかに、その確率が低かったのかが分かりますね

「東北7号」と名付けられ、栽培が広がり、東京千疋屋でも試食会が開かれたり、評判が知れ渡ります

そして、品種名となります

藤崎町から「藤」、「藤」なら花みたいだから、ひらがなの「ふじ」となり

日本一のりんごだから富士山にもあやかって「ふじ」、世界中の消費者が、富士山=日本と認識してくれる


まさに「言霊(ことだま)」だったんですよね

日本人的過ぎる発想ですよね、言葉通りに実現してしまうのですから

やがて、国光、デリシャス時代を経て、ふじの時代になって行きました

DSC_1524.jpg
DSC_1525.jpg
DSC_1526.jpg
DSC_1527.jpg


--------------------------------------------------------

今でも、りんご栽培には、多くの手間がかかっています

まだ雪の残る時期に枝を整える「整枝」「剪定(せんてい)」する事から始まり

春には肥料を施し、防除、殺菌、殺虫、摘花、摘果、袋かけ、袋外し、葉摘(はつみ)、玉回し、収穫、選別、貯蔵、出荷です

そうやって、多くの人の手によって、安全で美味しい果実は、消費者に届けられるのです

りんごは、良く見ると、一個一個、全部違う顔をしているんですよ

りんご栽培の歴史を振り返ってみて、日本のものつくりが何なのかが、良く理解できました

理想を目指す、諦めない、努力する、年月を超えても引き継ぐ人たちがいて、やがて奇跡が生まれる

DSC_1349.jpg

りんご栽培を極めた、篤志家の皆さん、輸入し配布した開拓使の方々、栽培を教えて広めて下さった方々、

防除や手入れを確立した方々、新しい理想のりんご作りを長い月日に渡って努力され結実に尽力された皆さまに感謝いたします

そして、この本の著者の「富士田金輔」氏に敬意を贈ります
DSC_1528.jpg


長くなりましたけど、「りんごの歩んだ道」の感想でした!


-----------------------------------------------------------

畑も雪解けとなり、耕作、育苗と、忙しい毎日が始まりました

雪が少なかった割には、雪解けが遅れています


天候、気温、日照、降雨、ちょうど良いサイクルに恵まれますように、祈って!


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8


戦争が終わり、「りんごの唄」に癒された日本人です

りんごの唄 並木路子


この、リンゴの唄の作詞家の「サトウハチロー」さんの祖父の「佐藤弥六」氏は、青森りんごの指導者であり功労者です

りんご士族の一人として、りんごの栽培に携わり、「林檎図解」を書いています


戦地からの復員者が増えると、農園の人手不足は解消し、戦争で荒廃したりんご園は徐々に復活して行きました

昭和21(1946)年には、土地改革があり、小作人の土地所有が許されると、りんご園も増えて行きます

昭和22年には、農業協同組合法が出来て、農産物の出荷販売や権利などが守られるようになりました

同時に、農産物の育成者を保護する目的で「農産種苗法」が制定されました


--------------------------------------------------------------


終戦直後に、青森県黒石市にある、青森県りんご試験場(現:青森県産業技術センターりんご研究所)で、続けられていた、りんごの選抜試験が結実します

守り続けていた交配試験樹の「果実形質試験」「経済試験」が行われました

「果実形質試験」とは、食味、果肉の硬軟、果汁の夥多、外形、色合いなどを選抜する試験です

「経済試験」とは、耐病性、栽培の難易、収穫量、貯蔵性などを総合的に判断し、地質や気候の適性などからの選抜試験です


日本で正式に交配し誕生した品種たち

<陸奥(むつ)>

昭和5(1930)年に、「ゴールデン・デリシャス」×「印度」を交配した実生の中の1本

試験結果「果肉は黄白色、肉質はやや粗、多汁で芳香あり、甘酸適和で食味、貯蔵性良好」とあります

陸奥と命名されたのが、昭和24年で、「農産種苗法」の第1号品種になりました


<つがる>

昭和5年の交配で「ゴールデン・デリシャス」×「紅玉」ですが、長い間、掛け合わせの「紅玉」が不明であって

種苗登録は、交雑試験から、45年後の昭和50年になってからです

両親の形状を受け継いで、肉質は緻密、果汁多く、酸味が少ない人気の品種です

世界でも人気がある品種だそうです(2002年に世界統計で21位)


<世界一>

昭和5年交配で「デリシャス」×「ゴールデン・デリシャス」

昭和49年に「青り4号」として発表されましたが、1個の重さが500gにもなる大きなりんごという事から「世界一」と言う俗称で呼ばれ、その後に登録されました

果肉は黄白、多果汁、酸味は少なく、食味良好の評価


青森県りんご試験場で誕生した他の品種

「北斗」「星の金貨」「あおり21」「千雪(ちゆき)=あおり27」などがあります

-------------------------------------------------------

岩手県盛岡市の農林省園芸試験場東北支場(現:果樹研究所りんご研究所)で交配育種された実生苗は

昭和14(1939)年~16年までで、総数13,775本だそうです

選抜され、淘汰され、最後まで残った登録品種が「ふじ」「あかね」「はつあき」の3本でした


<あかね>

昭和14年、「紅玉」×「ウースターペアメン」を交配して育てられた「東北3号」

昭和45年に、農林2号「あかね」と命名登録されました

果肉は白く、酸味が強い、味は淡泊


東北支場では、他にも

「はつあき(東北8号)」「きたかみ(東北2号×レッドゴールド)」「ひめかみ(ふじ×紅玉)」「さんさ(ガラ×あかね)」などがあります


<ふじ>

昭和14年に「国光(母)」×「デリシャス(父)」の組み合わせの実生で交配されました

昭和22~26年頃に結実、選抜試験を経て、昭和30(1955)年の秋、やっと納得のいく果実が結実したそうです

多果汁、甘酸適和、濃厚な味、香り良好、貯蔵良好との評価で「東北7号」となり、その後「農林1号の『ふじ』」として登録されました

交配から23年、多くの研究者の理想となる夢のりんごの誕生です


「ふじ」は、国光や紅玉を超える優良品種として大人気となり、日本だけではなく、今や世界の王座を占める品種となったのです


------------------------------------------------------------------


群馬県の伊勢崎市にある群馬県園芸試験場(現:群馬県農業技術センター)で交配育成された品種には

「陽光」「新世界」「あかぎ」「ぐんま名月」などがあります


秋田県横手市の秋田県果樹試験場で交配育成された品種

「千秋」「アキタゴールド」など

北海道夕張郡長沼町の北海道中央農業試験場で交配育成された品種

「ハックナイン」「ノースクィーン」

岩手県北上市の岩手県園芸試験場で交配育成された品種

「黄王(きおう)」

長野県須坂市の長野県果樹試験場で交配育成された品種

「シナノゴールド」「シナノスィート」「シナノレッド」

その他、民間で生まれた品種

「王林」福島県の大槻只之助氏が、昭和27年命名「ゴールデン・デリシャス」×「印度」を交配育成、今でも大人気です

「金星」青森県の佐藤肇氏が、昭和29年「デリシャス」×「国光」を交配育成し、昭和47年に登録

「やたか」秋田県の平良木忠男氏が、「ふじ」の枝変わりから発見、昭和62年に登録

「未希ライフ」青森県の工藤清一氏が、昭和56年「千秋」×「つがる」を交配し、昭和56年登録

「秋映(あきばえ)」長野県の小田切健男氏が、「千秋」×「つがる」を交配し選抜育成、平成5(1993)年に登録

「トキ」青森県の土岐伝四郎氏が、「王林」×「ふじ」を交配育成し、平成16年に登録

「アルプス乙女」長野県波多腰邦男氏が、昭和39年に「内山紅玉」の自然交雑実生を養成し選抜した小りんご


日本人が、交配し育成した品種は、書ききれないほど多様で、面白いりんごが多いのです

まさに、モノづくりであり、芸術作品でもあるのです

これからも新品種は、続々と生まれ、育まれて行く

そんな風に続いて行けたら良いなと思います


ラストになる、その10で、全体をまとめたいと思います

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7


理想のりんご作りへと歴史が移っても、それは遠く険しい道のりでした

自然界で起こる受粉を人為的にやる「人工交配」ですが、りんごは自家受粉しない(自家不和合性)わけですから、同一品種ではなく、異品種間の交配でなければ受粉しません

また、母親となる品種、父親となる品種をも遺伝子的な相性なども選抜して、交雑して試験を繰り返します

そこには、実がなるまでの時間も必要であり、交雑試験には、かなりの時間と費用がかかるわけです


昭和初期当時の優良品種は、「国光」「紅玉」「祝」「旭」「印度」「紅魁(べにさきがけ)」などですが
a_kokkoh.jpg
(国光)

そこに「ゴールデン・デリシャス」という黄色いりんごが輸入されて、親として選ばれました

a_golden.jpg
(ゴールデン・デリシャス)

今時なら「トキ」「黄王(きおう)」「星の金貨」「金星」「シナノゴールド」などと外見が似ている品種です

他にも「デリシャス」「スターキング・デリシャス」「リチャード・デリシャス」なども使われました
a_derisyasu_20170414143135cff.jpg
(デリシャス)
a_rityado.jpg
(リチャード)

「スターキング・デリシャス」は、「デリシャス」の枝替りで、東京の千疋屋さんが、アメリカのスターク商会から輸入して一世を風靡しました

https://twitter.com/kitakazoku2 のアイコン画像は、復刻版の「デリシャス」です

アメリカの新品種は、全て偶然実生で、人工交配品種ではありません

本場でもできなかった人工交配を、後発で栽培が始まった日本がやろうとしていたのです


須佐寅三郎氏が実験した、いくつかの交雑の中で、昭和5(1930)年に、「ゴールデンデリシャス×印度」があります

印度りんごは貯蔵が出来て甘い品種ですが水分が足りない、ゴールデンは栽培しにくく貯蔵がきかない

そこで、印度の貯蔵性とゴールデンの水分の長所を持つりんごが出来るのではと考えたわけです

同じく、「ゴールデン・デリシャス×紅玉」の組み合わせも同時に行われました


交雑してできた実の種を植えての繰り返しです

種から育てる事を「実生(みしょう)」と言います。実生の植物は「シードリング(seedling)」と呼ばれています

実生苗を選抜し、葉や樹勢を見ながら淘汰し、見込みがある苗だけを育てるのです

実がなるまでに淘汰された樹に、良い品種があったかも知れなと言うジレンマで苦しい作業だと思います


青森県では、この研究をバックアップして昭和6年に県立「萃果試験場」を設立、須佐技師が初代の場長になっています

昭和13年に国立の農業試験場が、青森県藤崎町に誕生します

そこに「新津宏」技師が赴任、さらに須佐技師の交雑試験を手伝っていた「村本政雄」技師技師も赴任します

青森県では、2つの試験場で競い合うように、交雑試験を同時に行うようになったのです


国立の試験場が目指した理想の品種は

早熟種「祝」よりも着色、品質に優れたもの

中熟種「旭」よりも酸味が少なく、着色品質、日持ちが良い物

晩熟種「紅玉」級で、耐病性が強く、着色品質、貯蔵性に優れた物

晩熟種「国光」に代わる品種で、栽培が容易で芳香を有し着色の良い物

味、色、貯蔵性、香り、作りやすい、そういう思いをかなえてくれる品種を求めたのです


すでに「祝」「国光」「印度」「ゴールデン・デリシャス」は、市場には出回っていません

個人的に栽培していたり、受粉用に樹を残している人は、いますけど、最近は見てないですね


日中戦争や太平洋戦争と勃発し、交配試験は危機を迎えます

多くの技師たちも招集されましたし、食料増産が主となり、果樹栽培は冷遇されるようになりました

肥料や農薬は配給停止になり、人手不足でりんご園は荒廃していきます

更には、りんごで「航空機燃料」を作る事を命令されたりで、昭和16年~20年に、りんごの交配は中断されています


ちなみに、戦中は、横文字が使えなかったため、全てに和名がつけられています

デリシャス=陽玉

ゴールデン・デリシャス=黄冠

リチャード・デリシャス=瑞光

スターキング・デリシャス=太陽


その9に続きます

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)


----------------------------------------------------------


樹は古くなると、花は咲いても小さな実しかつけなくなるようです

今の台木だと、りんごの樹の寿命は40年くらいと言われていますが

各地で残る100年超えの樹の品種のほとんどが「祝(いわい)」のようです

「江間中手」と同品種ですが、北海道では「14号」とも呼ばれます

この「祝」という名前は、当時、皇太子だった大正天皇のご成婚をお祝いして命名されたようです

少し酸味があって、ジューシーでりんごポリフェノールが多い初夏のりんごです

a_iwai3.jpg


今は、お盆のりんごは「つがる」に変わりましたが、以前は、青めの祝りんごが主流だったようです


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6


大正時代に入り、農業は新しい時代になりました

まず、変化が起こったのは「稲作」です

冷害に負けない、病気にも強い、そして美味しい米の「奥羽132号」の誕生です

東北地方の冷害問題は改善され、稲の優れた遺伝子の研究が始まります

奥羽132号の遺伝子は、今なお「コシヒカリ」「ササニシキ」「あきたこまち」「ひとめぼれ」にも受け継がれています


メンデルの法則が品種改良に応用され、遺伝子の研究が進みました

メンデルの法則が、日本で紹介されたのが、明治33(1900)年、2年後の明治35年には、札幌農学校の「星野勇三」博士が解説し研究しています

明治40年には、同校の明峯正夫教授が、「種子普及種」を発表し、日本でも育種学が誕生しました

星野博士は、大正8(1919)年に、果樹の自家不和合性に関する研究があり、りんご、ナシ、甘果桜桃を対象に研究した成果を発表されています

星野博士が、日本での園芸学、遺伝学、育種学の先達であり先駆者なのです


りんごの品種改良が、波及して実行されるのは、昭和に入ってからになります

昭和2(1927)年に、青森県立農事試験場園芸部の主任技師「須佐寅三郎」氏が赴任し、翌年からりんごの交雑試験を始めました

須佐技師の当時の品種評価によれば

「紅玉=代表品種で優良だが、生産コストが高く、ゴム病、黒点病、モニリア病に冒されやすい」

「国光=乾燥に弱い、果実に色が乗らない、春に早く味が変わる、紅国光でも鮮紅色は今一歩」


りんごの品種改良は、元々、大変難しい事なのです

読後1でも書きましたが

人工交配で種を採っても、実生(種から育てる事)では、元の品種よりも劣る事

その中から、優良個体を探すのは時間も資金もかかるし、至難なのです

それでも諦めなかった須佐技師ですが、星野博士が見込んだ優秀な人物です

須佐氏は、実は星野勇三博士のもとで園芸実習生として学び、アメリカへ渡米しカルフォルニアで園芸学を学んだ人なのです

更には、ニューヨークの植物園で育種学まで学んで、昭和2年に帰国したという経歴を持った人でした


須佐技師は、紅玉、国光を凌ぐ極上の品種を作り出すという難題に挑戦し続けます

紅玉よりも病気に強く、国光よりも色が優れた味の良い理想の品種への道が、やっと始まったのです


りんごは、交雑しないと受粉しません

一種類では、受粉しない性質を「自家不和合性」と言います

一般では、自家受粉しないとも言います

果樹全体は、この傾向が多いようです


その8につづきます

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)




--------------------------------------------------------------


種と言えば、種子法が改悪されて、日本の主要作物の種に存亡の危機が起こっている事を知っていますか


すべての日本人よ、主要農作物種子法廃止(モンサント法)に反対せよ=三橋貴明
http://www.mag2.com/p/money/169661

今の日本は、穀物の種の供給不足や価格高騰に苦しんでいるわけではありません。なのになぜ安倍政権は、いきなり「種子法廃止」という過激な規制緩和に踏み切るのでしょう。(三橋貴明)

取り返しがつかない「遺伝子組み変え作物」による汚染が起こる

「種子法」廃止へ。日本の食はどうなる


農林水産省は主要農作物種子法を「廃止する」法案を今国会に提出し3月23日に衆議院農林水産委員会が可決した。今後、参議院で審議が行われるが、同法の廃止は国民の基礎的食料である米、麦、大豆の種子を国が守るという政策を放棄するもので、種子の供給不安、外資系企業の参入による種子の支配などの懸念が国民の間で広がっている。

法律が果たしてきた役割を議論せず、廃止ありきの政府の姿勢は問題だとして3月27日に有志が呼びかけて開いた「日本の種子(たね)を守る会」には全国から250人を超える人々が集まり、「種子の自給は農民の自立、国民の自立の問題」などの声があがったほか、議員立法で種子法に代わる法律を制定することも食と農の未来のために必要だとの意見も出た。集会の概要をもとに問題を整理する。(後略)

出典:【種子法廃止】種子の自給は農民の自立 – JAcom 農業協同組合新聞
http://www.jacom.or.jp/nousei/closeup/2017/170330-32373.php

種子法が何のために存在しているかと言えば、「種子法によって稲・麦・大豆の種子を対象として、都道府県が自ら普及すべき優良品種(奨励品種)を指定し、原種と原原種の生産、種子生産ほ場の指定、種子の審査制度などが規定される」ためです。

要するに、「日本古来の原種や原原種の優良品種を都道府県が管理し、農家に提供せよ」という話になります。日本の食糧安全保障、食糧自給、そして食の安全を考えたとき、これは「当然の規制」だと思います。

種子法の肝は、自治体などに対し、「その地域に合った作物の種」の開発・普及を義務づけている点です。すなわち、日本の食糧安全保障の肝である「種」について、単純に「ビジネス」と化すことはせず、農家に安価で優良な種を提供することを、種子法が各自治体に義務付けているのです。

同時に、種子法は「遺伝子組み換え作物」の栽培としての普及を妨げる防壁でもあります。何しろ、遺伝子組み換え作物の栽培が始まり、遺伝子組み換え作物の花粉が空中を飛び、在来種と交配してしまう危険は、誰にも防ぐことができません。

比較的、遺伝子組み換え作物の栽培に否定的なメキシコであっても、主食であるトウモロコシの「在来種」であるはずの種子から、組み換え遺伝子が発見されています。それはまぁ、空中を散布する花粉を完全に防ぐことなど、誰にもできません。

日本が種子法を廃止し、将来的に遺伝子組み換え作物の「栽培」(※バラはすでに解禁されています)を認めた場合、最終的に日本の主食である米などが、遺伝子組み換えに全て汚染されてしまうという状況を、誰が否定することができるのでしょうか。

(以下省略、続きはサイトで)



「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5



りんご栽培が各地で広がり、日本の農業は変化を遂げました

しかし、果樹栽培には、様々な困難が待ち受けていました

「病害虫」「化学肥料」「食糧管理法」などがあげられます


中でも、一番目の苦難は、病害虫対策です

これを駆除予防する事を「防除」と言いますが、明治時代に樹を枯らさないために薬物があったわけではありません

明治21(1888)年の防除の技術としては、対処療法として、

ルイス・べーマーの教え子の農業現術生徒の「永根平教」氏が出した「果樹栽培心得」が北海道庁から出版されています

DSC_1479.jpg


虫の駆除に使われたのは「たわし」「へら」「石鹸」「石油」「苦木」「石灰」ダメなら「焼く」でした

まだ、殺虫剤も、殺菌剤も開発されていない時代では、これが最先端技術でした


アメリカでは、石油乳剤が開発され、これが農薬の始まりとなりました

殺菌剤としては、フランスが開発した「ボルドー液」が登場しています

フランスでは、ぶどう栽培での「べド病」に苦慮していて、これが開発されたのです

ボルドー液は、現在でも使われている薬品で、石灰と硫酸銅乳液で作られているものです


まだ「噴霧器」が開発されていなかったこと、殺虫剤や殺菌剤を使いこなせなかった事で、

防除が上手くいかずに廃園に追い込まれる事が発生し、地域全体で取り組まなければ効果が無い事も分かって来ました


そこで、農商務省が、明治29年に「害虫駆除予防法」を制定し、強制的な防除を進めました

明治30年に、青森で「アメリカ製の噴霧器」が使われ効果があった事で、明治43年には国産の「手押し式噴霧器」が発売され普及

粉末化したボルドー液の販売も同時期で、明治44年には、殺虫殺菌剤の「札幌合剤」が開発されています

札幌農学校の「宮部金吾」博士や試験場の技師などが、ボルドーを推奨し繰り返し教えていたようです

農家は、ボルドーのせいで落葉が落ちると信じていたため普及が遅れました

宮部教授の元で技術を得た「三浦道哉」氏は、青森県立農業試験場に着任後に研究を重ねました

三浦技師は、落葉は褐斑病のせいだと言うのを究明、更に腐乱病、モニリア病の侵入経路や生体を研究して大きな成果を残しています


りんご栽培の存亡は、この防除対策で明暗を分けて行きました


明治38年に、北海道・東北地方の病害虫の様子の記録が、北海道庁の「相沢元治郎」技師によって記録されています

岩手、福島、山形では、「りんごわたむし」が発生

山形県庁では100万駆除の方法を講じたが注意するものはなく、篤志者の辛苦は徒労に帰し、朝に駆除しても夕にはまた発生し

その駆除にほとほと疲れ「リンゴは、本県に適さない」のではないか」と言う者まで出て来た、とあります

しかし、米沢地方では、業者間の規約で駆除を遂行したため、同地方のりんご栽培はなお盛況とも


地域ごとの取り組みによって、大きな差が出て来たわけです

北海道庁の報告書によると、一番栽培に熱心だったのは、「青森県」という指摘があります

果樹の手入れが完全であり、清潔であり、薬剤から機材、顕微鏡に至るまで、設備し研究に余念がないと羨望のまなざしで報告しています


北海道でのりんごの品質が、青森県などの東北地方に及ばず、評価を落としつつあるのが何故なのかと言う分析では

栽培家が不熱心、不忠実、管理が不行き届きである結果と結論付けています

自然的には、北海道はりんご作りに適しているので、栽培方法の改良と熱心な経営に従事すれば、彼らを凌げるはずだから、覚醒を促しています

明治41年には、北海道では「花腐れ病(モニリア)」が蔓延し、大打撃を受けています


青森県では、熱心に防除に取り組み、北海道では、手の施しようが無くなっていました


多くの研究者の尽力によって、大正期に入ると、青森式栽培法が全国へと広がり定着して行きました

DSC_1478.jpg


リンゴ栽培は、岐路に差し掛かります

「日本りんご」への品種改良への道です



その7へつづく

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)



------------------------------------------------------------

脳の大型化に果実が後押しという記事が出ていました

この記事で思った事は

やっぱり、「りんごは知恵の実」だったのかなと言う事

日本で、同時多発的にりんご栽培が起こっていなかったなら、果物の栽培は始まっていないかも知れないからですね

りんごは、果実の総称とも言われてますし、りんご1個で医者いらずとかの格言もあったり

世界中で、りんごは愛されて来たんだと、ものすごく実感しています

------------------------------------------------------------

人間の脳の大型化、果物が後押しか 研究
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170328-00000004-jij_afp-sctch(記事は削除されています)
AFP=時事 3/28(火) 8:40配信

【AFP=時事】現在最も手軽に食べられるおやつ、果物のおかげで、人間は大きくて強力な脳を発達させることができた可能性が高いとの研究論文が27日、発表された。

 果物を食べることが、植物の葉などの最も基本的な食料からの重要な進歩となり、より大型の脳を成長させるのに必要なエネルギーを提供したと、研究チームは主張している。

 論文の責任著者で、米ニューヨーク大学(New York University)の研究者のアレックス・デカーシエン(Alex Decasien)氏は、「このようにして人間は、これほど非常に巨大な脳を手に入れ」、「食物の質を大幅に拡大して今の食事につながっている」と語った。

 米科学誌「ネイチャー・エコロジー・アンド・エボリューション(Nature Ecology and Evolution)」に発表された今回の研究では、霊長類140種以上の主食を調査するとともに、霊長類の食べ物が最近の進化の間にそれほど大きく変化していないと仮定した。

 研究によると、果物を食べる霊長類は、葉を主食とする霊長類よりも約25%大きな脳を持っているという。

 より大型の脳は、複雑な社会集団の中で生存、繁殖する必要に迫られて発達したとする説が、1990年代半ばから主流となっているが、今回の結果はこの説に疑問を投げかけている。

 集団の中で生き抜くという難題は、知能を高める一助となった可能性はあるが、霊長類の社会生活の複雑さと脳の大脳皮質(灰白質)の大きさとの間には何の関連性も認められないと、デカーシエン氏は指摘した。

 脳の大きさと強く相関していたのは、果物を食べることだった。

 果物などの食物は、葉などの栄養源よりも豊富なエネルギーを含んでいるため、より大きな脳を発達させるのに必要な余剰エネルギーを生み出す。

 同時に、果物が実る植物の種類やその木が生えている場所、果実をこじ開ける方法などを記憶することが、霊長類が大型の脳を成長させる助けになった可能性がある。

 また、脳が大型なほど、脳の機能を保つのにより多量のエネルギーを必要とする。

「人間の脳は体重の2%なのに、全エネルギーの25%を消費しているというのは、周知の事実だ」と、デカーシエン氏は述べた。「脳は、非常に高くつく臓器なのだ」 【翻訳編集】 AFPBB News

----------------------------------------------------------------

NEC_0671.jpg

未だに名前がつけられていないりんごも多いです

そして似た名前のりんごが多いです
DSC_1269.jpg
更に、長い名前のりんご名が増えて困ってしまいます。。。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。