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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その6


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■日本で初めてのりんごが実る

開拓使からりんごの苗を配布された旧会津藩士が、ついにりんごの実を結実させます


余市りんごの初収穫の様子を、川端義平氏がこう表現しています

***「川端義平」さんは余市在住の作家の「朝谷耿三」氏、著書に「余市物語」などがあります***

「つるべ落としに北国の秋が去ろうとする頃、赤羽源八の「緋衣」が6つばかり、金子安蔵の「国光」が7つほど、乙女が恥じらうように葉の間から色づいた姿を見せた。

人々は、これが役人の言った滋味にして栄養豊富な珍果りんごと言うものかと木の元に集まった。

赤羽源八は成功の感謝と神々への感謝で、もぎとる手が震えた。ずっしりとした手ごろな重みと感触は永年政府に持っていた不満も拭い去る高貴さを感じた・・・」


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りんごを実らせたのは、偶然では無く、国光を実らせた「金子安蔵」は、開拓使の農業現術生として修業した成果であったとも考えられます

明治9年札幌農学校(現北海道大学)が開校する以前の明治7年の8月14日の記述に

金子安蔵氏は、4等現術生徒(6円)という辞令を出されています

現術生として、果樹栽培を学んだ金子氏が、配布されたりんごの苗を大切に育てた成果だったようです


■りんご栽培に関しての功労者

余市会津藩士団からの現術生の記録

明治7年 中田常太郎(1等生徒)東 轟(4等生徒)
明治8年 東 蔵太(4等生徒)川俣友次郎(4等生徒)
明治9年 木村猪和雄 横山留三 

金子安蔵さんは、明治12年に1等生徒となっていますし、明治17年には勧業課農務係判任官の辞令で月棒10円の記録があります

川俣友次郎さんは、りんご栽培に尽力され、その後町議となり産業功労者となっています

東 蔵太さんは、一時期は開拓使に勤めていますが余市に戻って、りんご栽培の功労者となっています

余市会津人の3元老の一人「三宅権八郎」氏は、果樹・畑作のために余市町農会の創設に奔走し、農会長となった功労者

小栗富蔵氏は、りんご栽培の傍ら、余市りんご購買販売組合(後のりんご同業組合)を設立しました

その組合長を引き継いだ、水野音吉さんは、明治39年にはロシアにも輸出する道筋を作った人物

余市農業の発達史には、病害虫防除の功績として、伊藤甚六、百瀬清三郎、石山亀次郎、黒河内辰巳、さんたちの名前が残されています


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(小樽・後志の歴史:郷土出版社)より

記述者の菅原一也さんは、余市文芸42号(2017年3月)の中で「会津藩士の墓場山」「日進館」などについて詳細に書かれています

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余市農業発達史によると

明治12年、余市山田村の金子安蔵の畑で49号(国光)と呼ばれるリンゴが複数の実を結んだとあります

同じく赤羽源八の畑でも19号(緋の衣)が結実したとされていて、これが「余市リンゴのはじまり」です

このリンゴを結実させた苗木は、明治8年に開拓使から贈られた物です

当時開拓使では、明治5年3月、アメリカからリンゴ、梨、桃、プラム等の苗木を輸入すると伴に、その栽培の指導者としてルイス・ベーマーを雇い入れています

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ドイツ人の庭師とも言われていますが、北海道の気候がドイツに近かったのも影響があったのでしょうか

昨年に書いた「りんごの歩んだ道」でも書いたと思うのですが
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-996.html

東京の官園でルイス・ベーマーが教えた簡便で確実なリンゴの接ぎ木法が、開拓使だけではなく各地に行き届いたからでしょう

明治5年、ベーマーが指導する東京青山の官園に、余市から中田常太郎という元会津藩士が「農業成育方」として派遣されています

ベーマーは、明治7年、植物の生育分布調査で半年ほど北海道を廻る中で、7月26日に10名余の従者と伴に回路古平を経て余市の地を踏んでいます

明治3年浜中町に明治政府の開拓使出張所が設けられていたこともあり、開拓使の用命で東京から出向いてきたルイス・ベーマー一行は厚い歓待を受けたようです

翌明治8年、ベーマーによって品種名と番号で管理されたリンゴの苗木が北海道各地に配られたわけです

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ベーマー

ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。

(抜粋)

ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。

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前田克己氏の会津藩士物語は、多くの会津藩士にスポットを当てて書いています

その中でも、旧会津藩士を余市に移住させた功労者の隊長「宗川茂友」氏について多くのページを使っています

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「宗川茂友」とGoogleでググってみても、ヒットするのは、蝦夷地へ移住した旧会津藩士の隊長としての活躍が主です

また、余市に移住後、明治11年か12年に帰郷しています

元々、余市移住の藩士団は京都守護職以来、幕末の戦火をくぐって来た歴戦の強者でした

渡道は応募という事だったのですが

「家老の萱野権兵衛の一味枝幹という名目で蝦夷地へ流罪」と考える者もいますし

「主君の松平容保公ならびに一藩に代わっての渡道」「旧藩渡道のさきがけとして」と思う人もいます

ですから、旧藩士には賊軍という意識は無かったと思われます

しかし、現実としては、渡道後の一か月後には、会津藩は謹慎を解かれ、斗南藩へ移封となるわけです

何のための渡道だったのか、移住組の藩士の多くはそう思ったでしょう

また、兵部省と開拓使の対立にも巻き込まれ、多くの矛盾や問題点を抱えたまま、未開地で不自由な集団生活ですから

多くの不満で暴動を起こしても不思議では無いような状況下に置かれたのです


この状況の藩士団をまとめ、交渉し、移住藩士の生活の全てを指揮し、移住を成功させたのが「宗川茂友」氏だったのです

自らも、未開地を開墾しながら、指揮をとり、まとめ役となった隊長の宗川茂友さんとは、どのような人物だったのでしょう



その7に続きます



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吉田観光農園でとれた「緋の衣」

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駅前の山田商店さんの木箱用の貼り紙(山田商店さんは2017年2月で閉店しました)

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「国光」の画像が無くて、Wikiから借りて来ました

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%89_(%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4)

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■血判書

明治4年正月、開拓使小樽仮役所で、斗南藩代表の「広沢安任」氏と樺太開拓使監事「大山壮太郎」との間で移民の受け渡しが行われました

この時の藩士団は、隊長「宗川熊四郎茂友」氏を筆頭に193名が血判の受書を提出しました

これが「血判書」です

受書=請書で、誓約書とも言えます

(余市水産博物館に、旧会津藩士から寄贈された「御受書」が現存しています)

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御受書

別紙御規則に隨い実行を以可奉天恩之処万一御法度に背き産業等を惰候輩は其品により厳科可被仰付趣奉畏候、右御受申上候   以上

明治4年未正月元日

宗川熊四郎(ほか192名)


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この血判書は、藩士の一人「東(とう)」氏が長い間所蔵していて、余市町に寄付されたものですが

本来なら、樺太開拓使に提出したはずですから、残存しているのは副本もしくは控えだったのかも知れないですが

余市町史4によれば、副本ではなく、後年に何らかの目的、例えば「士族復籍」などのために作製したものと考えられると書かれています

血判書の末尾に別筆で書き加えた氏名もあり、斗南藩経由は18名であり、他は第3次隊もしくは、1~2次隊の子弟だそうです


樺太開拓使は、明治4年8月に廃止となったため、全ての移住者は北海道開拓使の管轄となりました


■黒川村・山田村の誕生

明治4年1月1日をもって、血判の受書を提出して余市郡シュプントに移る事になった藩士団

2月になり雪中から伐り出した木材で、最初に建てたのは給付される玄米を貯蔵するための「積殻倉」でした

3月には家を建てる場所を作り、登川に幅8間の橋をかけ「新開橋」と名付けます

5月には1村に1づつの公衆浴場も完成し、子弟教育のために寺子屋も建てています

幹部は戸建てでしたが、多くの家屋は5戸長屋、6月には小樽から荷物も届き、7月には入地が完了しました

余市町史より
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血判書の氏名を調べると193人のうち、親子とも記名は3組、兄弟の記名は分家と考えると

実個数は190戸となるため、全員が入植したのでは無いと言う

北海道開拓使報文や、北海道庁植民状況報文などの公式文書にはこう書いてあります

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「明治2年小樽港に抵る者百戸」

「明治4年先つ仮に余市に居らしめ後之を樺太に移さんとす因て漸次此に来往する者、百六十九戸遂に聚落を成す・・・・」


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公文書の記述と実際の入植戸数が違っています

前述では、第1次隊は103戸、第2次隊が108戸であり、血判書では190戸、公文書では169戸です

この戸数の違いは、入植が完了する6か月間に入植に加わらなかった人たちが居たという事のようです

宗川熊四郎茂友の譜代の家来である白藤又作・和気慎太郎などもいなくなっているようです

明治4年には第3次隊が来ました

それまで、何らかの事情で移住が遅れていて、芝の増上寺山内の搭中に分散宿泊していた人たちです

取締役は三宅安蔵氏で、戸主はすでに渡道している家族は33世帯の98人、戸主及び家族ともは13戸55人の153人


■屈辱の日々

血判書まで提出し、決意を持って入植した旧会津藩士ですが

当時の余市には、すでに先住の人たちが住み、経済力のある漁業家や商家や寺社もありました

葬儀を出す際に、会津は逆賊扱いされ断られ、会津藩士は改宗して神徒になったそうです

隊長の宗川家も会津時代には浄土宗でしたが、この件以降は、ずっと神徒だそうです

鰊漁に出面稼ぎに出かけるような事も武士にとっては、屈辱でした

さらに、3年間の扶助がうち切られる前に、自己生産を持って生きていかなければならないという事情もありました


北海道の先住民であるアイヌ民族には、農耕文化がありません

そのまま残っている原生林を開墾するための道具は、開拓使から提供されたとは言え簡単には進みませんでした

いよいよ扶助が切れるという明治6年、開拓使はノルマ(1町1反)を与え、達成者には奨励金を与えました

奨励金のおかげか、開墾の成績が格段に上がったようです


明治7(1874)年の10月から

農業現術生徒の福本政寛氏と藤吉五郎氏が助手を伴って西洋耕作機械で新しい農法と機械の取り扱いを教授しました

アメリカ近代農業技術を学び普及は、開拓使によるデモンストレーションでもありました

教えを受けたのは、長崎尚志らの10名との記述があります

馬を使い20日間で約5町歩の畑を耕起し、これからの開拓に馬耕が必要だと深く感銘を受けたようです

中でも、副戸長の在竹四郎太は、開拓使に札幌官園での実習を申し入れました


1棟5戸を5家と言い、伍長を置き、5家を5~6組まとめて1村長を置きました

以下は、各村長です

川の東には

1番村---杉本弥三郎、2番村---佐藤駒之進、3番村---武藤格弥、4番村---在竹四郎太

川の西には

上村---一柳平太郎、下村---落合恒三郎

入植後に、川東村は「黒川村」、川西村は「山田村」となりました

命名には、黒川村は、開拓使の「黒田清隆」氏と総取締の「宗川茂友」氏から1文字づつ

山田村は、「黒田清隆」氏と樺太開拓使監事の「大山壮太郎」氏から1文字づつ合わせたそうです

また、一説によれば、会津若松の古名が「黒川荘」で川の名前にも「黒川」がある事からとも言われています

山田の「田」は、開拓使余市出張所の「吉田大主典」の田をとったともあります


明治7年には、黒川村山田村が使われています

余市町史より、明治7年の黒川村山田村の蒔き付け面積

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明治33年の記録の、土地3町歩以上の所有者名簿に82人の名前があります

その名簿の中に、何と19名の旧会津藩士の入植者の名前が載っているそうです

19人の平均面積は、約5.1町歩で、会津藩士以外は、漁場経営者だけでほぼ不在地主です

会津藩士の能力の高さに、驚きますね



そして、旧会津藩士が、日本で初めてのりんご栽培への道にと続きます




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若林功(若林功七)氏の「北海道開拓使秘話第3巻」によると

「進退維谷り(しんたいこれきわまり)」という記述があります

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■進退維谷り

兵部省と開拓使の対立は、会津藩士たちへ大きな影響を残しました

石狩・小樽・高島の支配が、開拓使へと引き継がれたわけですが

開拓使は、兵部省からの引き継ぎを無視し相手にしなかったため

兵部省は、政府に藩士団を旧藩士へ返還するように要請します


しかし、旧藩主は、西軍からやっと許されて斗南藩3万石に移るために、四苦八苦の最中です

結局、北海道へ渡った旧藩士は引き取れませんでした

斗南藩は、開拓使へ引き取れない旨を願い出ましたが、開拓使は相変わらず冷淡な対応をします

兵部省と開拓使の縄張り争いに巻き込まれて、移住先が決まらないという状況なのです


まずは、今住んでいる鰊番屋は、ニシン漁が始まると出なければなりません

帰る藩も場所も自由も無く、独身の藩士の中には脱藩者(行方不明)まで出てしまいました

雪が消えるまでに移住先を決めて、雪解けと同時に開墾に移らなければなりません


明治3年2月に、樺太開拓使が設置されました

そして、5月には「黒田清隆」氏が、北海道開拓使次官となり樺太開拓使専任として赴任します

移住先も決まらないままの会津藩士たちは、黒田氏に嘆願書を出したようですが、詳細は不明です

黒田清隆氏と言えば、西軍薩摩藩の参謀であり、旧とは言え敵側の大人物

そこに願い出るわけですから、気持ちは複雑だったのでは無いでしょうか

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黒田清隆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田清隆


結果、黒田清隆氏が、その願いを受け入れる事になるわけです


宗川茂友家の家宝として、藩士団の懇願を承諾した旨の書簡が現存しているようです

**********

前文略す

指て過日より御示談之をたるない江

同藩之仁者昨日小生御引受辯官より

民部省江御藩江其儘住居又者帰藩之者

分別を付け御願書差出さる、方に内決

以堂し候之由内密御案内申し植え置候

尚書余拝願之上に奉存候 早々拝具

11月4日      黒 田 拝

廣沢君

宗川君


(漢字はそのまま、カタカナ→ひらがなにしています)

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11月4日とは、明治3年、宛名は「廣沢安任」氏と、前出の「宗川茂友」氏です

廣沢安任」氏は、2013年、NHK大河ドラマの『八重の桜』(岡田義徳さん)にも登場しましたね

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広沢安任 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/広沢安任

広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。

広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。

その後、会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後に廃藩置県により斗南県となっていたが、斗南県小参事となった安任は、困窮にあえぐ自県の救済策として弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事・太田広城と両名で、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)の成立に至っている。

また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、明治5年(1872年)に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした。当初は地元の反対、資金難に苦しんだが、内国勧業博覧会で馬、牛が龍紋賞を受賞している[1]。、なお、明治9年(1876年)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿・大久保利通が牧場を訪れ中央政府の要職を準備して仕官を薦めたと言われており、その後も幾度か政界への勧誘があったと言われているが、「野にあって国家に尽くす」として固辞し、畜産・酪農に生涯をささげた。養嗣子に甥の辨二を迎えた。辨二は駒場農学校を卒業した衆議院議員である[2]。


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宗川茂友」氏については、余市町のHPにも詳しく載っています

https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/kouryuu/aizu.html

福島県の西部、会津盆地の東南に位置し、若松城や白虎隊で有名な会津地方の中心都市です。明治4年に会津藩士の方々が入植され、日本ではじめてリンゴの栽培に成功しました。

 古くからゆかりのある両市町において、平成27年10月に交流の絆をさらに深めるため親善交流都市の締結をしました。
 HP:http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/

会津と余市町の歴史

会津藩士とリンゴ

 余市を代表する産物と言えば「リンゴ」というのが北海道人の連想ですが、リンゴが余市に根付くまでには、明治初期に本町に移住してきた会津藩士の苦難の歴史がありました。
(このコーナーは、福島県会津若松市とのホームページ相互リンクを記念して掲載しました。)

藩士団、余市へ

 明治2年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まりました。同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後オタルナイへと到着しました。
到着後しばらくは兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、最終的に余市へ移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた明治4年4月のことでした。

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そして、明治3年12月に、樺太開拓使の費用をもって、小樽在住の旧会津藩士は救済される事になりました

もう逆賊でも流罪人でも無く、旧藩への復帰とされ、ようやく救われる事になりました

仮の移住という名目で、年明けを待って余市川下流の未開地、当時の地名で「余市郡シュプント」への移住が決まりました

「シュプント」とは、アイヌ語で、シュプン=うぐい、トー=湖沼

余市へ移住した後に、「黒川」「山田」という町名を付けたのも、黒田清隆氏への感謝なのでしょうね

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この地域の利点は、水運が良く、洪水期にも水没しないし、比較的肥えていて、しかも無人地域でした

木材などを運ぶにしても、陸路は未開ですから海川に面していないと運べなかったのも大きいでしょうね

この頃の余市は江戸時代から移住者がいました

余市は泥炭地が多く、大雨でも水がつかない地域の大川町や浜中は、すでに居住地となっていました


明治2年の初冬から、1年3か月、ようやく生きる場所が見つかったわけです

移転先が決まった事で、青森の南部から木材を買い函館で切り込み、余市へ送られ準備が整いました

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昭和43年頃まで残っていた入植時のおもむきを残す居宅の写真



次回は、余市移住後の旧会津藩士のお話しになります


戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3

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■招かれざる客

蝦夷地(北海道)へ第1次隊が上陸して、わずか1週間後の事です

明治2年9月27日、政府は松平家の家名再興を許す事を決め、願い出るようにとの通達を出します

宿願であった謹慎が解けていたのです

松平家では、容保公の実子の慶三郎(1歳)を立てて家名再興の願いを出し、

その後、11月3日に陸奥下北南部に2戸・3戸などに、3万石を与えられたのです

*(目安として、1万石で1万人が養えるようです)


当時の情報伝達であっても、この情報は、すぐに北海道に移住した旧藩士たちにも伝わりました

「もう1か月出発が遅かったら、こんな未開の蝦夷地には来なかったのに」

「主君免罪の名目で、われわれをだました」

「何のために来たのか、主君と藩士の謹慎解除のためだったはずなのに」

多くの不満を呼ぶ事になったのです


青木日記によると

明治2年17日付けで

三人の隊員が「公私慎の姿を似て屹度慎被仰付候事」とあり、20日目に許され、うち一人は取締役を解雇されている

明治2年11月27日付けでは

「佐藤寅之助と申者清水金五郎、広瀬新吉と申者共江ケンカ致候事」とあり

翌日には「晦日 今晩、佐藤寅之助落命致候、天朝の御役人御改に御出に相成候」

これらの記述から、ケンカが常態化して絶えない様子が伺えます

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「青木日記」

第1次隊の藩士の青木寅之助氏が、明治2年9月21日から3年4月16日までの事をメモしていた日記

10月から会所勤めとなり、人の出入りや藩士家族の生活なども書かれている

小樽での生活に関する唯一の貴重な資料です。日記の所有者は、札幌市の青木義雄氏

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■石狩入植の中止

明治2年7月、明治新政府は北海道開拓使を設け、8月15日には「松浦武四郎」案に基づき

蝦夷地は、正式に「北海道」と命名されました

9月には、開拓使長官の東久世通禧氏が函館に到着し、札幌への拠点として、30日には開拓使出張所が出来ます

一方、兵部省は、先駆けて小樽に出先を置き、支配地に「石狩・小樽・高島」などを管轄下にしました


開拓使は「佐賀藩」

兵部省は「長州藩」

ここでも、藩閥の対抗意識があったわけです

しかも、犬猿の仲です


兵部省は、先に来道した結果、石狩や銭函の港を押さえ、開拓使側に糧食米を運ばせなかったそうです

開拓使側は、各場所の運上屋場所請負人に任命して、手持ちの米を集めたというエピソードもあります

**余市運上屋の「林長左エ門」氏も、少主典に任命され、米百俵を送っています**


開拓使と兵部省は、その後も対立した事で、会津藩士の命運も変化して行きました

開拓使は、札幌を管轄地とします

兵部省は、会津藩士を石狩当別に入植させるという計画で進めていました

兵部省は、札幌周辺の開拓に成功していた大友亀太郎氏を石狩国兵部省出張所開墾係に任命

12月に結氷を待って、石狩川を渡り会津藩士と木こりで雪の原野を測量し、住宅用の木材も伐採しました


この時に同行した会津藩士の記載が、前出の青木日記に書かれています

明治2年10月12日

「佐竹四郎太殿二宮俊蔵殿細谷伴助殿山内直之助殿石黒信太郎殿松本原之助殿、トウベツ方面へ罷越」

この藩士は10月25日と11月7日に別れて帰り、11月8日には落合恒三郎、阿妻が出張、12月15日には隊長宗川茂友も石狩当別に出張している

明治3年2月2日

「後者の分は石狩江別移候様、先着の分は高嶋・熊臼引移候様仰聞候」

3月18日「隊長トウベツノ方面へ出張候事、お供ニテ石山・青木」


しかし、大友氏によって進められていた当別移住計画は、突如として中止となったのです

理由は開拓使と兵部省の力関係が変化でした、明治政府が開拓使に引き渡すように命じたのです

兵部省は、陸海軍省に移行する計画だったようです

政府のやり方に嫌気がさした大友氏は辞任しますが、慌てた開拓使側は、開拓使掌に任命するも即日辞職して6月には離道してしまいます


3月になり、時期は鰊漁期に入り、小樽高島への移住組(鰊番屋住み)が、全員が石狩に移住しなければならなくなったのです


そして、余市へとなるわけですが

君たちはどう生きるか状態ですよね

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その4へと続きます


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当時の蝦夷地は、西と東に分けられていました

東側は「アイヌ居住区」として残し、境界線を作って対立しないように配慮していたのです

明治政府は、西側しか開墾出来なかったのです

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余市運上屋の資料
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2


戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1000.html

■小樽内へ上陸

旧歴明治2年9月21日、東京の品川を出港したアメリカ籍の蒸気船コユール号が目的地のオタルナイに入港した。

その船の乗客は、兵部省の井上弥吉に引率された北海道移住旧会津藩士の第1次隊の103戸332人でした。

旧歴の9月21日と言えば、新暦では11月4日、北海道は晩秋というより初冬

日本海は荒れしけ続きで食事も喉を通らなぬ者も多く信香浜に着いて蘇生した思いだったと、移住2世の川俣兵司氏が「炉辺夜話」に書いている


「オタルナイ」とは、今の「小樽市」

当時は、勝納川の河口を中心に海に平行して信香(のぶか)・勝納(かつない)が開けた所で寂しい漁村でした。

宿泊所となったのは、漁期外の鰊番屋や遊女宿、遠い蝦夷地への移民の悲哀と憤りもあったという。

第2次隊は9月30日、大阪丸で到着。資料が残っていないため108戸と推測されています。



【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編①廃橋編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=i9n1kGq-3vk

文献上最初の和人入植地とされる、「オタルナイ」石狩湾新港建設等の影響で1970年台に廃村になったが、今でもその痕跡が残る。
「おたる」の地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」に由来する。しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではない。

【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編②集落跡編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=mR4SSE5uZmo

文献上最初の和人入植地であるオタルナイは、原名をタルナイといい、今の小樽市や石狩市樽川のベースになった集落です。漁業不適地ということで、漁場を求めて人が散っていき、石狩湾新港開発に伴い1970年代に廃村になったそうです。
今でも集落の十字路、メインストリートは残っていますが・・・
厳しい自然環境で、漁業にも農業にも適さない河口砂地で、交通の便も悪く、舟運をやるには川が小さく、人間が住む理由が見つからないような土地です。




■蝦夷地移住のいきさつ

慶応4年(1868年/明治元年)、会津藩の鶴ヶ城は落城し西軍が勝利、城内にいた藩士たちを、会津藩士卆として猪苗代に収容し謹慎させました

この年の暮れには東京送りとなり、西軍諸藩監視の元で引き続き謹慎の身となった

戊辰戦争の敗者といえ、会津藩士は屈強で、新政府にとっても厄介な存在だったのです

最初に信州の松代藩に移住予定でしたが、途中で松代藩から「人数的に無理」との陳情で東京に送られたのです

城の外に居た藩士たちは、越後高田藩送りとなり寺院などに分散収容されました

明治新政府は、多くの仕事が山積み状態であり、その一つに蝦夷地開拓がありました

兵部省が政府に対して出された「会津降伏人始末荒目途」の記述には、こうありました

「総人数を1万7千人とみて、そのうち1万2千人を蝦夷地へ移し、5千人を内地3万石の地へ移す。

蝦夷地にへは、巳年(明治2年)4千人、午年に8千人。移住者には家作・農具代として48万両、米7万石を支給して欲しい」

政府は、最初から旧会津藩士を蝦夷地へ送り込み、北海道開拓をさせる算段があったのだろうと思われます

若林功七の「北海道開拓秘話」では

「降伏人には国民として一視同仁から特別の寛典と便宜を与え兵部省管理として、一部を北海道の発寒・石狩・小樽に移し開拓に従事させる事にした」と書かれています

柴五郎氏によると

「自由を束縛され屈辱に日々を送るよりも、新天地での生活が出来て、旧主の罪が許されるならと、200戸近くが応じた」とあります

しかし、それは、初めから普通の移民では無かったのです


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落城後の鶴ヶ城~銃撃の後が残っている

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会津若松観光ナビのHPから

若松城 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/若松城

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。 地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。



その3へ続きます



戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1

2018年になって、初めての更新です

余りにもマイペースで本当に申し訳なく思います

昨日は建国記念日の日で、お稲荷さんの日でしたが、余市神社も稲荷系と言う事で

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昨夜は、いなり寿司を食べましたよ

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今年は「戊辰150周年」と言う事ですよ

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明治元年は1868年、戊辰戦争から150年という節目の年なのですね

会津若松市では、イベントも目白押しのようです

会津若松市戊辰150周年記念事業
http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/


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会津藩士と余市町の関わりについてのおさらいです

まず、余市町の年表を見てみましょう

余市町のHPより
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/syoukai/history.html

余市町のあゆみ(余市年表)

年(西暦)

できごと


慶長4年(1599年) 松前慶広(伊豆守)、松前左膳に余市川右岸を与え上ヨイチ余市場所とし、左岸を松前八兵衛に与え下ヨイチ場所とする。
元禄元年(1688年) 松前藩、神威岬(かむいみさき)以北への婦女子の通行を禁止する。
文化3年(1806年) 幕府目付役遠山金四郎景普ら西蝦夷地(にしえぞち)を巡回。
文政3年(1820年) 初代林長左衛門ヨイチ場所を請負い、各地に漁場を拓く。
安政3年(1856年) 神威岬以北への婦女子の通行禁止を解く。これによりヨイチに定住する者増加する。
安政4年(1857年) 余市・小樽間の道路開通する。
明治2年(1869年) 開拓使余市詰役員派遣(浜中出張所)。余市定着77軒
明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。

明治16年(1883年) 余市・蘭島間にトンネル開通。
明治18年(1885年) 幸田成行(後の露伴)、余市電信局に赴任。
明治33年(1900年) 7月1日、郡内11町村を合併して余市町となる。
明治35年(1902年) 北海道鉄道株式会社により鉄道敷設。余市駅開設。
明治40年(1907年) 余市、小樽間に電話開通。
明治42年(1909年) 阿部勘五郎、黒川村に余市酒造(株)創設。銘酒「十一州」発売。
大正4年(1915年) 小樽電灯株式会社の工事により町内に電灯点灯(3,000余戸)。
大正9年(1920年) 第1回国勢調査。人口16,809人。
大正10年(1921年) 山田村にアユ人工孵化場建設。
大正14年(1925年) 大江村下山道地区を余市町に併合。
昭和4年(1929年) 北海道水産試験場完成。
昭和9年(1934年) 大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)創設。
昭和25年(1950年) フゴッペ洞窟発見される(昭和28年国指定文化財に)。
昭和29年(1954年) この年を最後として以後ニシンの回遊が途絶える。
昭和33年(1958年) 余市町立天然水族館完成。上水道が竣工し、市街地に給水。
昭和36年(1961年) 第10回全国高校スキー大会で余市高校優勝。
昭和37年(1962年) 前年に続き大水害発生。大川橋流失。
昭和40年(1965年) 北星学園余市高等学校開校。
昭和44年(1969年) 運動公園野球場完成。余市水産博物館開館。第1回北海ソーラン祭り開催。
昭和46年(1971年) 役場新庁舎(現在の庁舎)完成。
昭和47年(1972年) 笠谷幸生選手、冬季オリンピック札幌大会70メートル級ジャンプで金メダル獲得。
昭和54年(1979年) 中央公民館、陸上競技場、歴史民俗資料館完成。
昭和57年(1982年) 総合体育館オープン。
昭和63年(1988年) 英国ストラスケルビン市(現イーストダンバートンシャイア市)と姉妹都市提携。
平成3年(1991年) 北海道余市養護学校開校。余市図書館開館。
平成4年(1992年) 毛利衛氏、スペースシャトルに搭乗して宇宙実験。
平成7年(1995年) 旧余市福原漁場(国指定史跡)一般公開。
平成10年(1998年) 斉藤、船木選手、冬季オリンピック長野大会、ジャンプで金メダル獲得。宇宙記念館オープン。
平成17年(2005年) 第18回国勢調査。世帯数9,310世帯・人口22,734人
平成18年(2006年) あゆ場公園パークゴルフ場完成。
平成21年(2009年) 余市川浄水場(山田町)供用開始。
平成23年(2011年) 「北のフルーツ王国 よいちワイン特区」」に認定される。
平成26年(2014年) 名誉町民の竹鶴政孝氏とリタ夫人をモデルとしたNHK連続小説「マッサン」が全国放送される。(放送期間:平成26年9月29日~平成27年3月28日、全150回)
平成27年(2015年) 奈良県五條市と交流都市提携の締結。
平成27年(2015年) 福島県会津若松市と親善交流都市の締結。



この部分が、会津藩士が余市にに入植して、日本で最初にりんごを結実させた歴史です


明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。


会津藩士と余市町の深い繋がりについて

前田克己氏が書いた豆本~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11

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これを紹介しながら、振り返って行きたいと思います

この本は、平成2年に出された物で、表紙の殉職碑はこれですね

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豆本ですから、手のひらサイズの小さな本です

本編は、次回になります


2017年の終わりに、感謝を込めて!


丁酉の1年が、あっと言う間に過ぎてしまいました。

更新が少ないのを反省しながら、本年も終える事になり、大変申し訳ありません。

来年こそは、きちんと更新するように心がけたいと思っています。


本年も、たくさんの方々に出会い、教えられ、助けられ、何とか乗り越えてこられました

本当にありがたく、感謝感謝です。

来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

来年は、1月5日より、営業させて戴きます。

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それでは、皆さま、良い年をお迎え下さい!

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PS

ただいま、掃除とお正月の食のために、時間が足りないとボヤきながらも頑張っています。

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2017年の反省会も、まとめられたら書きたいと思っています。。。


【冬支度】感謝!本年度の売店の営業は無事に終了いたしました。


2017年の秋も忙しく慌ただしく、気が付けばもう冬が目前となりました。

6月下旬から営業していました露店ですが、気温の低下と共に営業が終了となりました。

たくさんの皆さんのご来店に心から感謝いたします。


冬用の野菜は、もう少し本店の方で販売いたしますので、ご利用下さい。

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北海道の冬の漬物と言えば、こんな感じです

「大根の玄米漬け」と「聖護院大根の粕味噌漬け」

そして「札幌大球のニシン漬け」が定番です

最近は、「白菜の粕漬け」も人気があります


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気が付けば、イチョウの葉はすっかり落ちて

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ラズベリーは、2度目の収穫を迎え

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まだ細すぎる大根も全部収穫しなければ、凍結の危機が迫って来ました

もう少し、秋を満喫したかったなと思いつつ

冬支度に勤しむ日が続きます

収穫の秋がやって来ました。秋晴れと遅れていた梅干の天日干し、枝豆収穫など


ずいぶん更新していないまま、季節はすっかり秋になりました

からっとした空気と昼間の暑さや夜の気温も、まぎれもなく秋ですね


今年は、春から低温やら雨やら日照不足やらと、作物には試練が続いて来ました

何と言っても、病害虫の多さが気になった夏でした

収穫時期になると、特に野菜の不作傾向を実感します

カボチャも収穫量が半分でしたし、ジャガイモは枝枯れが早く小玉傾向のようです

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季節的には遅れましたが、やっと梅干の天日干しが出来ました

今年の豊後梅も糖度高く酸味もあって、美味しい出来ですね

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もっとも食べられるようになるのは、半年以上先ですけど


それと、枝豆の収穫です

品種は「鞍掛(くらかけ)」です

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パンダ豆とも呼ばれ、実に黒い丸い色が入ります

もう何十年も種を更新し続けている、在来種で、とても美味しい枝豆です

大豆にしても美味しいです

すでに、大根、聖護院大根、白菜などの種まきは完了しています



夏秋イチゴ(かしゅうイチゴ)、四季なりイチゴも収穫のピークですね

色がとても鮮やかで、甘くて酸っぱくて、ソースやジャムにすると美味です

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ぶどうは、まだハウス物が主流で、露地物は、遅れ気味であまり良く無い印象です


りんごは、色が先行していますが、まだ味は乗っていないですが

早生旭、黄王、シナノレッド、恋空などの収穫が始まっています


その他で気になるのは、アライグマの食害が多くなっている事ですかね


このまま、秋らしい天候が続くと良いなと思います


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「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9


まとめです

りんご(萃果)(林檎)は、3つのルートで日本に入って来ました

①中国→朝鮮→日本 これが「和林檎」です鎌倉中期頃

②ポルトガル→長崎(耶蘇教)→伊達政宗 これはほぼ原産地と同じ原種です

③ヨーロッパ→フランス・アメリカ→日本 これが「萃果」 明治初めで改良種です(フランスでは「pomme」アメリカでは「apple」)

栽培過程で分かったのは

①種子から発芽したりんごは、元のりんごよりも質が落ちる事

②切られた枝から発芽したりんごは、元のりんごと同じ性質を持つ事

③ごくまれに、種子から発芽したりんごの中に、形が大きくなったり、甘くなったりする物がある事

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日本に適した品種苗を選び、りんご栽培の技術を教えてくれたのは、アメリカ人の農業教師「ルイス・べーマー」氏

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りんご栽培は、開拓使が導入し、北海道でまず広がり、果樹栽培がお金を稼ぐ仕事と認定された

りんご栽培は「東北地方」の失業武士の対策としても使われ、各地に広がっていった

鉄道が運行を始めると蒸気機関車が輸送の中心となり、青森県、岩手県が栽培の中心となって行った

青森と岩手が、りんごの産地として名前が大きくなって行ったのは、交通網と官民両方の努力の成果

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りんご栽培では、病害虫との戦いで努力と工夫をして来たのは青森県で、ボルドー液を粉化する事で効果があった

地域ごとの取り組みによって、りんご栽培には、大きな差が出ていった



苗の導入直後から、各地で、りんごの品種別の特性をつかみ、理想のりんごを交配して試験していた

岩手県盛岡市の農林省園芸試験場東北支場(現:果樹研究所りんご研究所)で、総数13,775本の中から「ふじ」は生まれた

昭和14年に「国光(母)」×「デリシャス(父)」の組み合わせの実生で交配し、昭和22~26年頃に結実、選抜試験を経て、昭和30(1955)年の秋、やっと納得のいく果実が結実


多果汁、甘酸適和、濃厚な味、香り良好、貯蔵良好との評価で「東北7号」となり、その後「農林1号の『ふじ』」として登録されました

交配から23年、多くの研究者の理想となる夢のりんごの誕生しました


多くの品種の中で、日本のりんご栽培技術の結晶の代表品種が「ふじ」だったわけです

すでに、世界22か国でふじは栽培がされていて、ふじは、世界市場で最も成功したりんごと言われています


昭和32(1957)年頃、消費者ニーズが変化し始め、国光と紅玉が中心だった生産に変化が出始めます

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ここで、次世代りんごをデリシャス系に行くか、国光に代わる品種への模索が始まっていました

選抜試験で良好だった「ロ-628」(国光×デリシャス)が注目される事になりました

この品種に一番に注目し、次世代りんごだと確信した研究者が、農林省園芸試験場東北支場(青森県藤崎町)の支場長の「森英男」氏です

国光を親とする組み合わせ6組、層実生数2241個体、その中で、国光に似ていたのは2個体だけだったそうです

いかに、その確率が低かったのかが分かりますね

「東北7号」と名付けられ、栽培が広がり、東京千疋屋でも試食会が開かれたり、評判が知れ渡ります

そして、品種名となります

藤崎町から「藤」、「藤」なら花みたいだから、ひらがなの「ふじ」となり

日本一のりんごだから富士山にもあやかって「ふじ」、世界中の消費者が、富士山=日本と認識してくれる


まさに「言霊(ことだま)」だったんですよね

日本人的過ぎる発想ですよね、言葉通りに実現してしまうのですから

やがて、国光、デリシャス時代を経て、ふじの時代になって行きました

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今でも、りんご栽培には、多くの手間がかかっています

まだ雪の残る時期に枝を整える「整枝」「剪定(せんてい)」する事から始まり

春には肥料を施し、防除、殺菌、殺虫、摘花、摘果、袋かけ、袋外し、葉摘(はつみ)、玉回し、収穫、選別、貯蔵、出荷です

そうやって、多くの人の手によって、安全で美味しい果実は、消費者に届けられるのです

りんごは、良く見ると、一個一個、全部違う顔をしているんですよ

りんご栽培の歴史を振り返ってみて、日本のものつくりが何なのかが、良く理解できました

理想を目指す、諦めない、努力する、年月を超えても引き継ぐ人たちがいて、やがて奇跡が生まれる

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りんご栽培を極めた、篤志家の皆さん、輸入し配布した開拓使の方々、栽培を教えて広めて下さった方々、

防除や手入れを確立した方々、新しい理想のりんご作りを長い月日に渡って努力され結実に尽力された皆さまに感謝いたします

そして、この本の著者の「富士田金輔」氏に敬意を贈ります
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長くなりましたけど、「りんごの歩んだ道」の感想でした!


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畑も雪解けとなり、耕作、育苗と、忙しい毎日が始まりました

雪が少なかった割には、雪解けが遅れています


天候、気温、日照、降雨、ちょうど良いサイクルに恵まれますように、祈って!